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交差点 準備号その2

  • 南3-4ホール | き-47 (評論・研究|ジェンダー・LGBTQ)
  • こうさてん じゅんびごうそのに
  • みなも
  • 書籍|A5
  • 3ページ
  • 0円
  • 2026/5/4(月)発行
  • ★準備号すら間に合わなかったので無配にします。

    「鬼滅の刃」と"私"の交差による現象を二次創作、批評、エッセイ、日記によって描写する。キーワード:ケア、精神疾患、病、障害、「二極化された強さと弱さ」、暴力、加害

    ==========
    【ペーパー全文】
    交差点

    その交差点は、街中でよく見かけるような直線と直線が交わる一点のことではない。摩擦によって消えかけてはいるものの規則的に並ぶ真っ直ぐな白線と、規則的についたり消えたりするランプが、人の動きを制御するその一点のことではない。

    その交差点は、街中をいくら探しても見つからない。その交差点を別の場所で再現することもできない。
    その交差点に用意された「特別」は、前向きな嬉しさを含意するものではない。

    そこにあるものは孤独である。交差点の形が珍しいがゆえに人からその姿を理解されづらいからではない。そもそもこれは交差点なのだろうかと、人から疑われるからではない。

    あまりに珍しいがゆえに、交差点自身がその珍しさ───自身を形作るもの全て───に疑問を持つことが孤独である。
    孤独は寂しさという寒さである。
    存在の実感が摩擦という感覚に表れるならば、世界に触れたはずの自己の輪郭に摩擦が感じられないこと、それが寂しさである。
    やがて、世界との接点を感じられない身体は、寂しさまでも疑問の対象とする。外界へ向かわない疑問に解決としての出口はない。

    私はその交差点である。私の中で交わる沢山のものはべったりと癒着している。いくつかの色の違う粘土を中途半端に捏ねて混ぜたものが私である。マーブル状の一つの塊は、足し算によって導き出された結果ではない。

    塊の中から混ぜられる前にあった色を抽出することはできない。混ぜられ癒着した塊と塊の境界線は既に曖昧になり、ところどころは元の塊が持たなかった色を呈している。
    だから、私の中で交わる沢山のものはどのような方法をもってしても切り離せない。それができたとして、抽出された塊は、その瞬間から私との関連性を持たない。
       
    私の交差点には規則性がない。一貫性もない。
    私という身体には、これまで交差点で何が起きて、時間の経過とともに何が蓄えられてきたのか、その記録がある。しかし規則性も一貫性もないデータでは、これから交差点で何が起きるのかを予測することが難しい。

    事故の原因が道路の形にあるのか、見通しの良さ・悪さにあるのか、運転手の過失なのか、はたまた天災による不運な事故なのか、一つ一つの事故の一部始終は克明に記録されているものの、活用には至っていない。
    その交差点は四半世紀も存在していながら、事故が起きる原因も、事故が起きる確率も、何一つ知らない。

    規則性も一貫性もない交通データの総体は、時に浮世離れした、"普通"を素通りした姿を見せる。

    人間の形は多様であるということを私は知っている。かつて私は、それを救いの言葉として受け入れた。その姿勢が、今となっては物足りない。

    一人として同じ人間はいない。皆それぞれ異なる経験や考え、身体を持っている。
    ただ、多様な人間の姿があるとはいえ、例えば医学にはある程度の体系だった知見がある。私が悩んだ時まず信じるのは医学である。

    私という交差点はとにかく具合が悪く、世界に対して居心地が悪い。私は医学に助けを求め続けている。

    しかし、不思議なことに───本人にとっては本当に不思議なことなのだ───私は10年以上もの間医学が張る網をすり抜け続け、どこにも引っかからないまま世界に存在している。

    今、私の交差点を構成する癒着した塊一つ一つに名前はない。
    一貫性のない交差点という「一貫性のある特徴」も、現状は名付けのヒントとして機能していない。今のところ、私の交差点に名前らしい名前はない。

    そういうこともあるのだと最近理解した。
    かつて私は医学を万能のものであると信じていたが、医学も学問の一つであり、そうであるならば現状と限界を持つ積み重ねの総称であると、最近ふと理解した。
    厳密に言えば、まさか自分の状態像が、医学がカバーしていない「端っこ」もしくは「最先端のその先」にあるのだと思わなかったのだ。
    だが、私が思っていた以上に、そういうことは往々にしてあるのだ。

    私が辿り着いた最先端にあったものは検査入院の案内だった。相当難しいであろう引き剥がし───「鑑別」───はどのように行われるのか、非常に興味がある。

    私は今、救いの手である検査入院にはある程度期待をしている。私の交差点には名前がないと言ったが、現状いくつかの候補はある。
    私はこれから、候補の中から正解としてどれか一つを見つけにいくのではない。見かけ上一つの困難に対して、候補の中の何がどれほど関わっているのかを議論しにいくのだ。「一つの困難」や「何」に含まれる色が必ずしも一つである保証はないから、事態はひどくややこしい。

    私は交差点だ。
    私にとって、交差点であること全てが苦痛であるわけではない。
    それは「人生にはいいことも悪いこともある」という、しばしば私をイラつかせる、短慮で無意味な慰めのことではない。マーブル状の交差点は「快楽」と「苦痛」の二項対立と、それを前提にした現状の評価を己のものとしない。

    交差点ははじめから交差点であった。
    交差点として言葉を紡ぐことは私にとって「そうしなければ生きられない」行為だ。それは時に快楽として機能するが、娯楽という言葉では説明しきれない鬱屈とした怒りがある。だがしかし、それは娯楽だ。そして自分にひどく当たる行為だ。自分にひどく当たる行為は、とても前向きな救済だ。

    それによって他人と交流することができた。そのうちの一人である、私が一番信頼している友人は、私が大学を一年休学し、更に一年留年しなければ出会うことのなかった大切な友人だ。

    それはそれとして、だ。交差点は暴れている。ずっと暴れている。
    暴れていなかった時などないが、最近は特別暴れている。

    変わらないものなどない。私にとって症状とは固定されたものではない。生活環境や所属コミュニティの変化ごとに、年齢を重ねるごとに、新たな発見を得るごとに、それぞれの「暴れかた」がある。四半世紀生きてわかったことだ。

    検査入院は私に対してある程度の救いと安寧を手渡すだろうが、私は操作的診断名によって救われることはないと既に知っている。
    そうであるならば、私はとっくに救われている。
    交差点は外界から与えられる枠組みの発見を終着点としない。交差点は、己の内部にある世界、その交差点の様子を、世界との接点を得られない交差点の孤独を、その孤独のままで描かねばならない。描いた結果何が起こるかはわからない。ただ衝動がそこにある。交差点として生きる衝動だ。

    私の衝動は私のために始まったが、その衝動は想像できないほど遠くにある見知らぬ孤独に何かをもたらすことを私は知っている。だから、私はこの文章を自分のスマホの外側に送り出す。
    けれども言わねばならない。私はあなたのために描いているわけではない。私はあなたを知らない。この文章を読んでくれたあなたも私を知らない。そういうものの間にある言葉だからこそ、あなたは勝手に何かを感じていいのだと、私は思っている。
    あなたにぶつかった言葉が、響いて、何か新しい言葉を作り出したのなら───そんな幸運があるのだとしたら───いいなと思っている。

    私が私の言葉に込めたはじめの衝動が、消えてなくなるほど遠くに届いた時、交差点という現象は別の何かとして誰かのものになるはずだ。

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