■「雨の日の選ばないという選択」 著者:砂東塩
窓の外にはさらさらと雨が降っていた。
軒先の紫陽花を、ライムグリーンの傘の女性が眺めていた。窓のフレームのなかにもう一人、ひっつめ髪の小柄な女性が現れる。彼女が何かを話しかけ、ライムグリーンの傘が閉じられた。
星型の、薄っすらと青みを帯びた花ビラがぱらぱらと咲く、鉢植えのガクアジサイ。
ガリガリと音がしていた。
私の手はくるくると手元のハンドルを回し、ゆっくりと挽かれていく珈琲豆の、抽出前のある種直接的な香りがあたりを満たしていた。
「ああ、僕、あの紫陽花気に入ってたんですけど、売れてしまうかもしれませんね」
私の向かいに座るその人は、少し淋しげに窓の外を見ていた。
「さっさと買わないから」
「そうですね。他にもいくつか迷っていて、優柔不断はいけませんね」
そうですよ、と私が言うと、彼は素直に「はい」と頷いた。手元がふと軽くなる。
「挽けたようですね。じゃあ、お淹れしましょう」
彼は立ち上がり、脇にあったカセットコンロに火を付けた。
ステンレス製のコーヒーポットはすぐにシュンシュンと音を立て始める。消えそうなくらいに火を小さくし、彼は私の挽いた珈琲豆をドリッパーに移した。
「実は僕の分も入ってたんです」と悪戯らしい笑みを浮かべる。
彼と初めて会ったのは春先だった。
友人の経営するこの花屋によく顔を出していた私は、ある日雨宿りがてらここに寄った。
引っ越しとともに車を手放し、雨が降るたび、やはり車を持とうかと考えたりする。車があれば服が濡れることもなく、靴も晴れの日と同じもので構わない。傘すら必要ないくらいだ。
あの日もそんなことを考えながら、バス停に向かう途中で店に駆け込んだ。
しとしとと降っていた雨が急に風を伴ってはげしくなり、店主の明日菜は慌てて軒先の鉢を避難させていた。その時、見たことのない男性がそれを手伝っていた。
「普段は何箇所かで移動販売をしてるのですが、雨の日はこちらで営業させてもらうことになりました」
そう言った彼は「旅する珈琲屋 白木理人」というショップカード兼名刺のようなものを私に差し出した。
私が座っているのは八人がけくらいの木のテーブル。
店の端にあるこのスペースでは、明日菜が定期的に鉢植え教室やら多肉植物の寄せ植え教室を開いている。それほど頻繁に開催するわけでもなく、ふだんは資材置き場として使われていた。
今はすっきりと片付けられ、一角には袋詰めされた珈琲豆とビスコッティ、それに数種類のスコーンが売られている。
漂っていた珈琲の香りが、ふと柔らかく角が取れたものになった。
ゆっくりと動いていた白木の手が止まり、彼はコーヒーポットをコンロに戻し、くるりと手元の砂時計をひっくりかえした。
さらさらと、砂は音もなく落ちていく。
「茉優さんは、その後どうしたんですか?」
え? と顔を上げると、白木は「さっきの話」と言い、再びポットを手に持ってドリッパーに湯を落とした。
真ん中にたらたらと数滴落とし、そのあと星の頂点を辿るように五ヶ所、やはりたらたらと湯を垂らす。
「変わった淹れ方ですね」
「ええ。ある方に教わったんです」
「ある方って?」
「内緒です。茉優さんも、内緒なら話さなくてもいいですよ」
ちらと上げた白木の視線は穏やかだった。それは、かつて同僚だったある男の眼差しと似ていた。
「それきり会ってないし、向こうからも何も言ってこないから」
「後悔しなかったんですか?」
深みを増す香りに、心は次第に解けていった。
柔らかな雨のように沁みる白木の声は、凝り固まったわだかまりをほろほろと溶かしていく。
私は、あの男のことを考えた。
もしあの日、求めるままに彼の素肌に触れたなら私の心は満たされたのだろうか。私は彼の何を知って、彼は私の何を知っているのだろう。
「後悔してますよ。一人でいるのは楽だけど、寂しいですから」
何を選べば後悔しないのか。後悔しない道なんてあるのだろうか。
白木は「そうですね」と目を伏せた。一瞬、彼と何かを共有したように思えた。
「おまたせしました」
白木は二脚のカップに珈琲を注ぎ、私の向かいに腰をおろした。彼の視線を追って窓に目を向けると、窓外の二人は別の紫陽花の前で話し込んでいた。
「白木さんのお気に入りは、まだお嫁に行かないみたいですよ」
「そうですね。でも、今ふたりが見ているあの白い紫陽花も捨てがたいんです」
選ばないと何も手にできないんですけどね、と白木は薄く笑って珈琲に口をつけた。
縁だけがぐるりと白く、二色の釉薬で染め分けられたそのカップはしっとりと手に馴染んだ。
揃いのカップで珈琲を啜る、向かいに座る白木は男というよりは鏡のように思える。立ち上る湯気をふっと吸い込むと、ゆるゆると力が抜けていった。
「いつもより、すっきりしてますね」
「ええ。そろそろ汗ばむ季節ですから」
「豆が違うんですか?」
白木は「内緒です」と思わせぶりな笑みを向けた。その口元はあの男のものに似ていた。
一日、また一日、と私は臆病になってゆく。
報われなかった過去にばかり思いを馳せ、男なんてそんなものだと、ただ過ぎゆく時をながめている。
選ぶことも手を伸ばすこともなく、たまたま目の前に訪れたものをじっと見て、時には目をそらし、そうしてすべてをやり過ごしている。