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アンナ・アップルトンの冒険

  • 第一展示場 | H-22 (小説|SF)
  • あんな・あっぷるとんのぼうけん
  • かわせひろし
  • 書籍|文庫判(A6)
  • 128ページ
  • 800円
  • https://bccks.jp/bcck/155720/…
  • 2019/11/10(日)発行
  • 19世紀末ロンドン。トビィは下街で暮らす身寄りのない少年。そこに現れたのは貴族の娘、アンナ。シャーロック・ホームズに感化され、自称探偵として活動するアンナお嬢様は、トビィを見初め、屋敷の召使い兼探偵助手として雇い入れる。思い込み激しく、推理は適当、探偵失格なアンナに振り回されるトビィは、無事お嬢様を守り切れるのか。

    〈試し読み〉
     時は十九世紀末、所は大英帝国の首都、ロンドン。公園に面して立ち並ぶ大きな建物の中の、とある屋敷の一室。がっしりとした本棚に並ぶ書籍。壁にかかる世界地図。そのとなりにある移動式の黒板に、書き残された英単語のつづり。
     どうやらそこは勉強部屋のようだった。背の高い窓から、柔らかな午後の日差しが差し込んでいる。
     その部屋の中央に置かれた円卓で、一人の少年がノートに向かっていた。
     小麦色の髪、青みがかったグレイの瞳、鼻の頭にそばかすのあるその少年は、少したどたどしく、けれど一文字一文字丁寧に、文章をつづっている。
    『ぼくの名前はトビィ。トビィ・トマス・テイラー。サウスオーチャード伯ジョージ・アップルトン氏のお屋敷に勤める召使いです。
     これからみなさんにお伝えする物語は、ある少女と少年が、知恵と勇気をふりしぼり、世に巣くう悪漢どもに立ち向かうお話です。
     この少年とは、すなわちぼくのことで、少女というのは、お嬢様。伯爵令嬢、アンナベル・アレクサンドラ・アップルトン嬢。とてもかしこく、勇敢で、正義感にあふれた名探偵……。
     ……って、書けって、お嬢様が、ぼくに念をおしていました。ちゃんと書かなけりゃ、いけません。でないと、おこられちまいます。
     ちなみにぼくがこんな本を書いているのも、名探偵の活躍は、相棒がちくいち書き留めて、手記にまとめるもんだって、アンナお嬢様から命じられたからです。これはなかなか難しい仕事です。ぼくはまだ書き物が苦手だし、でもかっこよくまとめないと、お嬢様は満足なさらないでしょうから。
     それではまず、なぜこんなことになっているのか、事の起こりから始めましょう。』
     書き進めながら、その少年トビィは、自分の仕える伯爵令嬢アンナとの出会いと、そしてそこから始まった、数奇な冒険譚を思い出していた。
     そう、これはある少女と少年が、知恵と勇気を振り絞り、世に巣くう悪漢どもに立ち向かったお話……。

     トビィとアンナの初めて出会いは、ロンドンの、イーストエンドでのことだった。
     貴族や金持ちが住む山の手のウエストエンドとは違い、イーストエンドは、ごちゃごちゃと狭くて薄汚くて、立ち並ぶ煙突から出る煙で青い空もくすんで見えるような、いわゆる貧民街だ。貧しい人々がひしめき合い、犯罪や病がはびこって、けれど活気に満ちている。そんな喧騒の街で、トビィは暮らしていた。
     トビィは父親の顔を知らなかった。トビィがまだよちよち歩きの赤ん坊の頃に、亡くなってしまったのだ。数年前には母親も、流行り病で天国に召されてしまった。
     その後トビィは、母の妹の、叔母の家に引き取られた。叔母は優しい人だったが、その夫は、そりゃあひどい人だった。酒を飲むとすぐ暴力をふるうのだ。
     やれ、お前のせいで生活が苦しいだの、こんなやっかい者を押し付けておっちにやがってだの、さんざんひどいことを言ってはトビィを殴った。叔母がかばえば機嫌を悪くしてますます荒れ、従姉妹たちまでとばっちりを食う。これではみんなも耐えられないと感じたトビィは、とうとう家を飛び出した。
     こう聞くと、トビィがすごく不幸に思え、あわれみを誘われるかもしれない。でも実は、トビィはそれほど気にしていなかった。それは、この時代のこの辺りでは、ごくごくありふれた事で、十を過ぎたぐらいの子供が働いて一人で暮らすのも、そう珍しくはなかったからだ。
     それに母が、よく口ぐせのように、小さなトビィに教えてくれていた。
    「いいかい、トビィ。コツコツ真面目に生きていれば、絶対、神様は見ていて下さるんだから。いつか、いいこと起きるから、絶対、ひねたりすねたりしちゃ、いけないよ」
     それはイーストエンドのような所では、とても難しい事だった。貧しく、その日の暮らしにも困るような所では、人は簡単に道を踏み外す。だからこそ、母は我が子の将来を思い願って、とても大切な事として小さなトビィに言い含めたのだ。
     そして母親が大好きだったトビィは、その言葉を大切に胸にしまっていた。家を飛び出してしまったけれどくよくよせずに、毎日一生懸命に働いて、暮らしていた。
     そうして、トビィはアンナと出会った。

    「スミスさん、届け物終わったよー!」
     市場に戻ってきたトビィは、八百屋の主人に声をかけた。弾む息と紅潮した頬が、ここまで駆け戻ってきた様子を物語っている。
    「おう、トビィ、ご苦労さん! さすがに速いな。急ぎの仕事はトビィに頼むに限るよ。この辺の小僧どもの中じゃおまえさんが一番だ」
     満足そうにうなずいた八百屋の主人は、前かけのポケットをごそごそと探ると、硬貨を一枚取り出し、トビィに手渡した。
    「ほい、約束の駄賃」
    「エヘヘ、ありがと……あれ?」
    「早く仕事を片付けてくれたから、色つけといたぜ」
    「わあ、ありがとう!」
    「おう、またよろしくな」
     思っていたよりちょっと大きめの硬貨に、トビィの顔は自然とほころんだ。母の教えを実感するのはこういうときだ。八百屋のスミスは気前のいい大らかな人柄で、トビィに優しい。
     トビィは毎日、市場で掃除をしたり、荷物を運んだりして働いていた。そんなにすごく稼げるわけではなかったけれど、せっせと駆け回るその姿が市場のみんなに気に入ってもらえ、こまごまとした仕事には事欠かなくなった。まじめに一日働けば、なんとか暮らしていける。
     この日も、朝早く、日の出ないうちからあちらへ使いに行き、こちらで汗を流しして、ようやく午前の仕事を終えたところ。遅い昼食の時間になっていた。
     トビィのお腹が、くう、と鳴り、空腹を知らせる。何を食べようかな。トビィの足は市場に出ている屋台へと向かった。
     いつも持っている袋の中から、硬くなった黒パン一切れと、ちょっと欠けてる自分のマグカップを取り出した。屋台でエンドウ豆のスープを注文して、これに注いでもらうのだ。硬くなった黒パンも、スープに浸して柔らかくすれば、おいしく食べられる。
    「よう、トビィ。たまにはうちの、あつあつのミートパイはどうだい」
     隣の屋台から、声がかかった。ミートパイの香ばしい、おいしそうなにおいがただよってくる。思わずのどがごくりと鳴る。手元にはスミスからもらった、いつもより多めの駄賃……。
    「おいしそうだね。……でも、やめとくよ」
    「ちえー、あいかわらずしっかりしてるな、トビィは。もうけっこう、貯まったんじゃないのかい?」
    「ううん、まだまだ」
     トビィは、なるべく節約してお金をためて、いつか自分も屋台を持ちたいと思っていた。
     市場に出ている屋台は、そこで働く人達で、いつも繁盛している。トビィも屋台を用意して、そこでちょっとおいしいものでも作って売れば、もっと稼ぎがよくなって、もう少しましな暮らしができるはず。叔母の家にいた時よく手伝っていたので、トビィも簡単なものなら、なかなかおいしく作れた。
     何がいいかなあ。
     えんどう豆のスープをすすりながら、そんなことを考えていると。
    「おい」
     周りのみんなが、ざわつき始めた。
     向こうから、一人の女の子が歩いてくる。
     みんな、そちらを見ている。
     濃いブルネットの長い髪。
     大きな瞳。
     きりっとした眉。
     整った顔の、可愛い女の子。
     しかし、みんなが何より驚いていたのは、その格好だった。すらりとした身体を仕立てのいい服に包んだ、明らかに上流階級のお嬢様。けれどその服は、男物の服。まるで紳士のようないでたちだった。
     こんなごちゃごちゃした市場に、育ちの良さそうな女の子が来るだけでも場違いだ。それでいて、紳士のようなズボンをはいてスーツを着て、となると、みな見た事もなかった。
     この当時、男性と女性の服装ははっきりと違っていた。女性、特に上流階級の女性となれば、コルセットでウエストを細く締め、あのふんわりとしたドレスを着ていた頃だ。そこで男物のスーツを着る少女というのは、かなり奇抜な格好だった。
     見慣れぬ姿にあっけに取られ、みんなじろじろと眺めていたけれど、その少女は、すっと背筋をのばして堂々と、まったく気にしていないふう。
     トビィも驚いて、ボーッと見ていると。
     辺りを見わたしていたその子と、ぱちっと目が合った。
     するとその少女は、暖かい春の日差しに花がほころぶように、にっこりと笑った。
     その明るい笑顔に、トビィはドキッとした。かわいらしく、整った顔立ちが、笑うといっそう魅力的に見えたから。
     この人が、伯爵令嬢アンナ・アップルトン嬢だった。



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