一歩踏みだす。足が黒い毛のかたまりに触れた。ふわりとした柔らかい毛のひと触れに、このうえない温かみをおぼえる。 薄暗がりにも輝く愛らしい瞳で李娘を見あげている。むく犬の黒耳。 目の前の大事も忘れて、李娘は軽くほほえむ。 頼りはこの細身の剣とおまえだけだ。胸中でつぶやく。いとしいむく犬を抱きあげてやりたい衝動に駆られるが抑える。 思いが伝わったのか、まっ黒な犬は体を李娘にすり寄せてくる。触れてくる毛の柔らかさとぬくもりが心地よくて、心が安らいだ。だが、視線をさだめて、ふたたび洞口に注意を向ける。ときは満ちた。 (「李娘」より)