いつの春だっただろう。あたしとまゆかは桜のはなびらをつかまえるために、走って、跳ねて、手を伸ばし、踊るみたいにくるくると、ふたりで桜の合間を駆けていた。
あおいだそこには、視界いっぱいにひろがる薄紅。はなびらはするりと指のあいだをすりぬけて、ひとひらも手のなかにおさまらず、果たして触れているのかすらわからない。
すべてがまぼろしみたいで、ぼんやりとした気味の悪さが心の隅っこでたゆたっていた。うつくしいのにどこか怖くて、奇麗なのに寂しく、もの悲しい。幼いあたしは胸を占拠する矛盾した感覚に惑いながらいつしか足を止め、舞散る花びらのなかで立ち尽くしていた。
そんなあたしの目に留まったのは、傍らのまゆかが、いつになく真剣な面もちで、頬を紅潮させてうさぎのように跳ねている姿だった。宙にささげるまなざしは潤み、けれど強い光を宿していて。あたしはそのただならぬ様子に、声をかけることをためらってしまう。どうしたのまゆか。まゆからしくない。
思えばはなびらを追いかけはじめたのはまゆかだった。いつもはあたしの後ろについてくるだけなのに、走るのも好きじゃないくせに、どうしてあんなにも必死になっているんだろう。あたしもひとときとはいえ、なぜあんなにも夢中になって桜吹雪のなかを駆け回っていたのだろう。
春風が髪をもてあそぶ。さざなみのような音とともに世界が白くそまる。カーテンのようにまゆかとあたしを遮って、声も、姿も、すべてを、さらってゆく。呼び止めなくちゃ、と閃くように思った。まゆかを、呼び止めなくちゃ。
そう思った刹那、まっしろな世界のなかで桜のはなびらひとひらが、まゆかの両の手にほとりと落ちた。今まで追い求めていたのが馬鹿らしくなるくらい軽やかに、まゆかの両の手に包まれた花びら。それをまゆかは、ほうと息をつきながら胸に抱く。
「まゆ、か」
ようやっと声を絞り出したあたしに、まゆかはゆっくりと澄んだまなざしをむけて顔をほころばせた。
「コウちゃん」
あのね、と。まゆかがとっておきの秘密を教えるかのようにささめく。
「これはコウちゃんのしんぞうだよ」
それは、ほんとうに一瞬のこと。
まゆかは両手を口許にあてがって、いちど、細い喉を鳴らした。あたしは為すすべもなく、ただ、まゆかがあたしの心臓を飲み下すさまを、みつめていた。
そう、あれはまごうことなくあたしの心臓だった。
いつの春のことだっただろう。ただその光景だけがあたしの脳裏に鮮烈に灼きついて、今もずっと、消えないままでいる。