読酌文庫の看板作品であり、自身初の長編創作小説 居酒屋はなり亭での美味しいシーンやヒューマンドラマを描く、全4巻と番外編エピソードからなるお話はここから始まりました
あらすじ
日本酒好きなこじらせ女子の重森絢子は、お気に入りの居酒屋「はなり亭」で心癒される一人飲みを楽しむ。 一人暮らしを始めた大学生の渡辺涼花は、ひょんなことから「はなり亭」でアルバイトを始め、日本酒に興味を持つことになる。 世代の違う二人の女性視点で語られる、ほっこり飲み屋小説。
イベント頒布の他、委託販売や
Kindle版もあります
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お試しバイトとお客様
渡辺涼花は、偶然通りかかった居酒屋・はなり亭の前で店主である・御厨喜孝に声をかけられ、お試しでアルバイトする羽目になる。酔っぱらいに絡まれそうだし、可愛い制服も着られそうにないから、居酒屋のアルバイトなんてと思っていたのだが……御厨の料理や客の優しさに触れ、はなり亭で働くことを決める。
思いがけない助け船。彼女の挙げてくれた選択肢から、団体客の何人かが日本酒の注文を決めてくれた。注文を取り終え、御厨のところに通す際、涼花はカウンター席に居る女性客に礼を言う。
「いえいえ、ちょっと出過ぎたお節介じゃなかった?」
「そんなこと……! 本当に助かりました!」
「私も、お酒のおかわり、お願いできる?」
見ると彼女のグラスも空になっている。先ほど涼花と目が合ったのは、追加注文をするために涼花の様子を見ていたからかもしれない。そして、慣れない対応に困っているのを見かねて、自分の注文よりも先に、団体客の対応ができるよう助け船を出してくれたのだろう。
飲食店の店員に対して、横柄な態度を取る客の話を聞くことが多いが、それに比べるとこの女性はなんて思いやりあるお客さんなのだろう。これこそが『お客様』なのかもしれないと涼花は感じた。
深呼吸と溜息
職場での人間関係にモヤモヤを募らせる重森絢子は、今宵の憂さ晴らしにと居酒屋・はなり亭でひとり飲みを楽しむ。気持ちの良い接客をしてくれる店員や御厨の料理に心癒やされるひとときを過ごすが、やはりふとした瞬間、心に影は差すもので……
しかし、御厨の言葉に心をほぐされ、前向きな気持ちで店を後にするのだった。
気が付くとまた、仕事のことを思い出して一人、モヤモヤしている自分に気づく。
(あー、だから、仕事が終わったら考えないって決めてんだから!)
考えまいとすればするほど考えてしまうものだ。だから、本当に考えたくないのであれば、「考えるな」と思うよりも、違うものに目を向けるべきなのだ。わかってはいるが、なかなか思考の方向性を変えるのは難しい。
くだらない回想に振り回されている自分を吐き出すつもりで、絢子は大きく息を吐いた。はた目には、ため息に見えたかもしれない。ため息をつくと幸せが逃げるというけれど、自分の内側に溜まった何かを思い切り吐き出せば、胸が軽くなるように思うのは自分だけだろうか?
淡い気持ちと憧れの人
はなり亭でのアルバイトにも慣れた涼花は、次第に日本酒に興味を持つようになり、二十歳の誕生日を迎えたら自分も飲んでみたいと思うようになっていた。そして、常連客である重森に対しては憧れを抱くようになる。
「いらっしゃいませ。一杯目から日本酒にされますか?」
おしぼりを渡しながら、涼花は重森に聞いてみる。彼女は日本酒が好きらしく、一杯目から日本酒を選んでいることが多いのだ。そしてまた、涼花が日本酒に興味を持つようになったのも、重森がはなり亭で日本酒を飲んでいたからでもある。
涼花の問いかけに軽く頷くと、重森は日本酒のメニューから澤屋まつもとを選択した。
「と……自家製豆腐の冷ややっこ、ささみの梅肉和えとポテトサラダ、あとお任せ焼鳥盛り合わせをお願いします」
巡る季節とささやかな何か
気が進まない職場の飲み会に参加した絢子は宴席を楽しめるはずもなく、浅慮な後輩の言動や無神経な同僚の発言に心をすり減らす。とうとう気持ちが振り切れてしまい、辛い過去の記憶が呼び起こされた絢子は、はなり亭の前で涼花と鉢合わせてしまい……
はなり亭でよく見かけるアルバイトの女の子が、お客さんを見送るところに鉢合わせてしまったらしい。絢子は気づかれないうちに通り過ぎようとしたが、こんな時に限って目が合ってしまった。
アルバイトの女の子(たしか「涼花ちゃん」という名前だっただろうか)は絢子の様子に気づくと戸惑った様子だった。無理もない。店に時々来る、いい歳をした大人が泣きながら立ち尽くしていたら、おかしく思って当然だ。
「あの……寄って行かれますか? 今、お客さんがあまりいないので……」
「……!」
戸惑いながらも涼花ちゃんは、絢子を店へと招いてくれた。いいのだろうか、と今度は絢子が戸惑う。ハッキリとした返事も聞かないまま、涼花ちゃんは絢子を店内へと促している。
寄ってから帰ろうと考えていたのだ。今更逃げるように去るのも気まずいではないかと、自分を励まし、絢子ははなり亭の暖簾をくぐった。