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楽園行片道切符

  • え-19 (小説|百合)
  • らくえんゆきかたみちきっぷ
  • めぐる
  • 書籍|文庫判(A6)
  • 96ページ
  • 500円
  • 2020/9/6(日)発行
  • 酔いどれ百合小説サークル「しかのねどころ」の長編小説です。
    バーで元恋人に再会したニートが頑張ります。

    ーープロローグよりーー
     「おいしいです。えっと」
     「しーちゃんって呼んで」

     乾杯の勢いよりは落ち着いた物腰で、振る舞い酒をしてくれた人が名前を教えてくれた。

    「しーちゃん。じゃあ私は、あーちゃん」
     
     私はその盛り上がりに乗り切れないまま、やたら低い声で返した。
     なるべく自分が覚えられるように人の名前を呼ぶ。お酒をくれた人を忘れるなんて薄情かもしれないけれど、自宅の周りと違ってこの場所は人とグラスが目まぐるしく行き交っていて、覚えることに苦労を感じる。万が一忘れても、相手が覚えてくれればいい。そんな期待も年齢と共にどこかへ行ってしまった。

    「さっきもあっちで乾杯してたよね。ああいうのも好き?」

     シャンパンの前のものは薬草を煮詰めたような味がした。ああいうのは好みが別れるんだろうか。
     けれどしーちゃんは違う。淡い色のワンピースをきれいな姿勢と体型でチェアに沿わせて、同性はもちろん異性にだって、また会いたいと思われるに違いない。
     さっきのお酒は香りが気に入って瓶の名前を聞いたはずだけど、しーちゃんと挨拶をしただけでもう覚えていない。ここでのコミュニケーションは、仕事をしていない私には馴染めない量とスピードで流されてゆく。

    「お酒は、割となんでも好きです」
    「私みたいな人、は?」

     瞳が大きくなってしーちゃんを見ているのが自分でも分かったから、すぐに手元のグラスをあけた。飲み慣れない淡さの炭酸までも、体の中で薬草の味に取り込まれてゆく。
     言葉の雰囲気を真似して茶化しながら、とんでもないことを聞いてくる。しーちゃんは慣れてるんだろう。お酒を配って、話しかけられて、言葉遊びをして。お金と気力を貯めないとここに来れない私とは全然違うことを思い知らされる。

    「女性とお酒は……別ですよ」

    わずかに残った気力で言ってみても態度が伴わなくて、片付けられるグラスをただ見ていた。やっとこの店に来れたと思っていたはずなのに、もう離れてしまいたい。
     しーちゃんは続きをせがんで私を見ているように見える。飲むつもりもない次の一杯に悩むフリをしていても、狭い店内では視線ですぐに気持ちが伝わってしまう。
     耐えられなくなって財布を取り出している間も、しーちゃんはただ私を見ていた。開かれたドアは私が風を感じている間に自らの重みで閉じていく。私が夢に見た景色を乱暴にその中にしまい込んでしまいたかった。

    「やっぱり覚えてないんだ。安城さん」
    「覚えてるよ。新城さん」

     カバンも持たず上着すら羽織らず、その人の体が私の腕にしがみつく。
    あなたが掴んだのは楽園への切符だ。私ななんかじゃない。解いた腕をばいばいと振って、私は大通りへの道を駆け出した。

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