90年代、ある日本の地方都市で暮らす、内気な中学生の女の子ノラちゃんは、近所に住む不登校の同級生アントンに出会う。ノラちゃんが「秘密の花園」と心の中で呼んでいる小さな庭園のある家に、彼は母親ハンナと父親ダンカンの3人で暮らしている──
2025年 第49回すばる文学賞1次選考通過作品を加筆修正して発行。家族と社会、友だち、子ども、そして個人にとっての幸せはいかに脆く、分かり合えないものであるか……。116ページの中編小説です。
玄関ってね、全ての入り口だから。良いものも悪いものも招き入れるから。良いものはいいけど、悪いものは防がなきゃじゃない? でね、ラベンダーの香りには厄除けの効果があるんだよ。だから植えてるの
──本文より
ある美しい夏の午後、アントンの家の庭では夕食の準備が着々と進められていた。大きく傾いた西日が、手入れされた庭の草木や、その横で食事を次々と運んでいるハンナの額や、ワンピースから出ている細い二の腕を照らした。
じりじりとした日差しを浴びて、彼女は少し汗をかいていた。皿を置く度にテーブルにいる三人に話しかけては声を上げて笑ったり、そうでない時もほとんど常に微笑を浮かべていた。彼女は開けっ放しになっていた掃き出し窓から屋内に戻り、また大皿を持ってきて、既に料理と四人分の取皿でいっぱいになっているテーブルに置いた。年季の入ったキャンプ用のアルミ製のテーブルは、皿を置くたびにカタカタと揺れた。
少し煤けた銀色のテーブルには、真っ白いテーブルクロスが掛けられていた。料理はアサリの入ったオリーブオイルのパスタや山盛りの葉サラダ、更にミートローフ(だと思う。ノラちゃんは実物を初めて見たので確証はない)、更にバゲットとバター、手作り風のジャムまで用意され、とても四人では食べられないような量だった。ようやく全てを机の上に並べ終わったのか、ハンナは既に席についている三人の向かい側、一番手前の席に座った。ハンナの両隣はそれぞれ夫のダンカン、息子のアントンが座っていた。
ハンナが席に着く前までは、ダンカンが二言三言話したきり、三人は特に何もしゃべらず、座って待っていた。ダンカンさんは口髭を生やした穏やかそうな雰囲気の紳士だった。彼もまた、ニコニコと笑っていた。柄のついた半袖の小ぎれいなオープンカラーシャツを着ていて、アントンや妻のハンナと同じように痩せていた。ときおり、困ったように眉を寄せて、目配せするような視線を隣のノラちゃんに向けたが、その意味はわからなかった。
アントンは、まだ背が低く、まるで小学生のようだった。何だか映画のワンシーンみたいな写真(陽光まぶしそうな波止場にポツンとベンチが置かれていて、老人がこちらを背にして座っている)がプリントされた黒いTシャツを着ている。まっすぐ食器を見つめて、まるで目を逸らしたら死ぬかのようにじっとしていた。小学三年か四年の頃以来、今日初めてノラちゃんは彼の顔をまじまじと見た。彼は目鼻立ちが妙にくっきりしていて、母親に似ていた。はっきりした顔をしているから余計に、暗い目つきが、ずっと気になっていた。
ハンナの正面であり一番奥の席が、ノラちゃんだった。どことなく浅黒い肌をした女の子だった。あまり櫛を入れてなさそうな髪の毛は肩ぐらいの長さに切り揃えられ、真っ黒だった。切長の細い目つきをしていた。背はそんなに高くないが、アントンよりは長身に見える。少し怒り肩に見えるのは、部活で卓球をしているからなのか、生まれつきなのか、どちらとも言えない。学校指定の半袖ジャージを着ていた。
ノラちゃんは、この家は毎日こんな感じなんだろうかとぼんやり考えながら、でもやっぱりきちんとした会合にしか見えないこの場に、自分だけ上下名前入りの水色のジャージを着ていることが居心地悪かった。アントンのお母さん、ハンナが席に着く直前まで、ノラちゃんは手の甲を意味なく掻いたり、手のひらを団扇のようにして、バタバタと扇いだりしていた。「暑かった?」とハンナがやや表情を曇らせて(でもやっぱり半分は笑顔を保ったまま)、訊ねた。「あ、いえ!」と、ノラちゃんは思いのほか威勢の良い声が出てしまい、自分の声の大きさにすこし驚いた。手のひらにはじっとりと汗をかいていた──
続きは本書にて