こちらのアイテムは2026/5/4(月)開催・文学フリマ東京42にて入手できます。
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可愛いストーブの時間

  • 南3-4ホール | う-79 (小説|SF)
  • かわいいすとーぶのじかん
  • 坂井文香
  • 書籍|文庫判(A6)
  • 314ページ
  • 1,000円
  • 2026/5/4(月)発行
  •  十年以上前のこと、僕はある小説投稿サイトに掲載されている訳有りの小説を読んだ。訳有りの書き手が執筆した作品だった。サイトのメッセージ機能を通した少しの交流の中で、その書き手も作品も訳有りな存在だと知らされた。僕は小説を読んで自分がどれほどの衝撃を受けたかを伝えた。称賛の言葉も贈った。交流は長くは続かなかった。書き手は自身の小説を削除し、サイトには空っぽのアカウントページだけが残された。結局、訳有りに関する具体的な話は聞かせてもらえなかった。

     時が過ぎ、僕は漫画家としてちょっとばかりの実績を作っていた。たまに覗く訳有りのアカウントには変化が無かった。空っぽだった。思い立って、メッセージ機能で「あの小説を本にしたい。その本の表紙と挿絵を自分が描きたい」と言葉を送ってみた。虚しかった。返信なんて来るはずがなかった。実際、来なかった。

     虚しい片道通信から一年と少し過ぎた頃、小説投稿サイトにメッセージが届いていた。訳有りからだった。「あの小説はあなたが好きに使っていい」という内容だった。一瞬喜んだが、僕はすぐに冷静になった。これはつまり突き放されているということじゃないのか? そうはさせない。逃がしてなるものか。「好きに使っていいと言われても小説のデータがない」と返した。さらに「十年以上経っているんだから世の中もけっこう変わった。時代に合うよう修正してもらう必要がある」と追撃した。訳有りは「とりあえず以前のデータを送る」と言ってきた。僕の胸は高鳴った。久しぶりにあの衝撃の小説を読める。


     物語は、杉村という三人家族の家のリビングに御影という未来少女を乗せた妙な装置が不時着するところから始まる。そして御影はしばらく杉村家に居候することになる。妙な装置はどこも壊れていない。ちゃんと利用できる。なのに出番が少ない。過去や未来を変えるとか歴史を改ざんするとか、そんな流れにならない。そういった展開は皆無だ。三人家族の杉村家が一時的に四人家族になっただけの話が語られていく。中学三年生の杉村家の長男が科学部の部長を務める変わり者で、未来の科学や装置の理論に強い興味を示す。なんなら堅物の父親も実は同種の変わり者、未来少女である御影は未来人の感性で動く輪をかけた変わり者。まともなのは母親のみ。特別な事件は起こらず、物語は平和のうちに進んでいく。長男の興味から生まれる疑問とそれに答える御影のやりとりが実に重厚で、難解なはずなのに力強い説得力を伴っている。物語冒頭あたりで「そういう展開にはならないだろう」と感じた部分について、「それが必然で、その展開以外はありえない」と認識を改めさせられるエピソードが語られる。御影が優しくて可愛くて、しかも面白い人物だと判明していく。唐突に物語が動く。装置が利用されないことに不満を述べる御影の振る舞いから、長男と科学部後輩の女子生徒との色恋事情が引きずり出され、話に恋愛要素が加わる。物語の先が予想出来なくなる。一貫して未来科学の迫力が衰えることなく語られていることに心地良さを覚えるようになる。この部分だけ軸がぶれない。物語を支える背骨的な役割を担っている。御影が未来の自分の家に帰還する日が訪れる。杉村家の三人は静かに御影を見送る。


     やはり面白い、と僕は思った。文章がうまいということか? エピソードの置き方が絶妙なのか? わからない。わからないのに、読み進めているうちに夢中になって「すげえ」を心中で連呼してしまう。

     訳有りが修正を施したデータを送ってきた。物語自体にほぼ変化はない。ちょっとした修正だ。そのちょっとした修正にすら異様な才能が滲み出ているのを感じ、僕は心を折られそうになる。「ペンネームは坂井文香でお願いします」と言われ、疑問に思う。訳有りはこれまでにけっこうな数の本を世に送り出していて、そのすべてでペンネームを変えているとのこと。さすが訳有り。意味がわからない。どういう意図でそんなやり方を採用しているのか。本を作る作業に関するやりとりで、訳有りは親切で丁寧な対応を見せる。何者なのかは教えてくれない。自身のことは語らない。なので僕は今もなお訳有りがどういう書き手なのかを知らないままだ。

     この『可愛いストーブの時間』を読んで面白いと感じた人は、ぜひSNSで感想を発信してほしい。なるべく多いほうがいい。すごく多いと嬉しい。多くの読者から注目されれば訳有りの隠密性も崩せるかもしれない。こんなすごい作品を書く人がこそこそしてるなんて変な話じゃないか。僕は「坂井文香」を表舞台に立たせたい。この本を読んでくれた人たちに協力をお願いしたい。ついでに表紙や挿絵も良かったという感想を発信してくれると僕が喜びます。絵は僕が描きました。


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