深い森の奥に、人間に忘れ去られた屋敷がありました。
知らなければ、存在しないことと同じ――しかし屋敷は確かにそこにあり、吸血鬼の男が一人、まだそこにいました。
「いったい、いつまでこうして暮らせばいいんだろう?」
吸血鬼は何百年もの間、屋敷から出ずに暮らしていました。閉じ込められているわけではありません。扉を開ければ外に出られます。森から出ると人間の世界が広がっています。
ところが、吸血鬼は吸血鬼であるが故に、屋敷から一歩も出ようと思いませんでした。
「人間のように暮らしたいけれど、どうやっても僕は吸血鬼で怪物だ。僕は人間の世界じゃ暮らせない。人間でないことがばれたら、聖職者に退治されてしまう」
一見、人間のように見える彼は、よく見ると人間にしては不自然な姿をしていました。
まず顔色の悪さ。死人のような青白さです。それから先の尖った耳に、口を開くと見えてしまう鋭い牙――普通の人間と比べると、明らかに異様でした。
そして吸血鬼である彼は、太陽が出ているうちは、外を歩くことができませんでした。ここまで条件がそろってしまうと、誰もが簡単に自分の正体を見破るだろうと、吸血鬼にはわかっていました。
もしも人間でないと気付かれてしまったら、怪物はどうなるのか。
排除、退治。それが吸血鬼にとって、最も恐ろしいものでした。
「いまは聖職者の活動がそこまで盛んじゃないと聞くけど、まだ存在はしている。僕の存在に気付かれたら、絶対に退治されてしまう!」
吸血鬼としては、種族関係なく、仲良く暮らしたいと思っていました。ところがどうしても自分は吸血鬼であり、人間達から「捕食者」と見られ、敵視されてしまうのでした。そもそも人間は、人間以外の「人間に似た種族」を恐れ、敵視する種族だったのです。
そのため吸血鬼は、自分の屋敷に長いこと引きこもっていました。そんな人生を歩むしかなかったのです。
加えてこの吸血鬼は、とても優しい吸血鬼でした。
「僕が我慢できなくて人間のところに出てしまったら、きっと人間を怯えさせてしまう。それは嫌だな。僕はただ普通に、そして仲良く暮らしたいだけなんだ」
屋敷の外、森の向こうでは、人間の技術が発展していました。そのため、吸血鬼は昔からの娯楽である読書以外に、テレビを観たりラジオを聴いたりといったことができましたが、世界からは切り離されていました。
* * *
吸血鬼は、荷物の配達に来た魔女に相談しました。
「いつかこの屋敷を出て、人間の世界で暮らしたいと思うんだ。どうしても吸血鬼だから、普通の暮らしはできないかもしれない。でも、世界の一員として暮らせたらと思うんだ」
「あら、私が持ってくる娯楽に、限界が来たようですね」
この魔女は、吸血鬼の昔からの友人でした。魔女の見た目は、紛れもなく人間そのもの。だから彼女は吸血鬼と違い、普段は人間の世界で、人間として暮らしていました。けれども彼女には魔法を使う力や、箒に乗って飛ぶ力が確かにあります。そこで彼女は吸血鬼のために、必要なものを街で買っては時々屋敷に届けていたのでした。
吸血鬼の屋敷に、定期的に輸血パックが運び込まれるのは、彼女が箒に乗って持って来てくれるためでした。また人間の世界で暮らす彼女は、そこで見つけた面白いものも友人のために持って来てくれます。吸血鬼の屋敷に最近の新聞があったり、新作の本があったり、テレビやラジオがあるのは、彼女からのプレゼントでした。
「君は多くの本を僕に与えてくれた。テレビやラジオも与えてくれた。でも結局、僕は屋敷からは出られていない。道具を使って世界に触れることはできるけれど、僕はその中に生きてはいないんだ。僕はやっぱり……もっと広い世界で生きたい」
そこで魔女は、まじまじと吸血鬼を見て、
「前から思っていたのだけれど、吸血鬼さん、試しに一度、人間の街に出て見たらどうでしょう? 案外あなたは、人間のように見えるもの」
「でも、吸血鬼だとばれたら、聖職者に通報されて、退治されてしまうよ」
「実はね、吸血鬼さん。大昔といまでは、人間の世界は大きく変わったのです。いまの人間にとって、私達、魔女や吸血鬼というのは、もう本や物語の中にしか存在しないもので、そもそも過去に本当にいた、ということすら忘れ去られているのです。あの面倒で恐ろしい聖職者達については、まだ存在しています。けれど普通の人間にとって、その聖職者すらも、物語の中にしかいない存在と思われているのです」
「つまり、僕は怪物だとは思われない、ということなのか? そして聖職者は呼ばれない、ということ?」
「ただし、うまく誤魔化せないと、人間以外の何かということには気付かれてしまうかもしれません」
魔女が帰った後の夜、吸血鬼は試しに屋敷を出て、人間の街に行ってみることにしました。屋敷の外に出るのは、いつぶりでしょうか。多少の恐怖はありましたが、人間の街に行く空想は何度も行ってきました。そのため吸血鬼は、問題なく街までたどり着きました。
街灯が並ぶ道を、吸血鬼は歩いていきます。時刻は深夜。まるで自分が映画の中にはいってしまったようだと、吸血鬼はあたりを見回します。人間の姿はありますが、吸血鬼を気にする様子はありません。すれ違っても、彼らは振り返りません。
「夜の暗闇のせいか、人間達は僕に気付いていないみたいだ」
嬉しくなって、吸血鬼はどんどん進んで行きます。そこで気付きました。
「街に来たのはいいけれど、どこに行けばいいのだろう? たくさん人がいる場所に来たんだ、何か話をしたいなあ」
そうして目に留まったのは、一軒のバーでした。
吸血鬼は、これまでに何冊もの本、何作ものドラマを観てきました。普通の人間のふりをして店に入り飲み物を頼むのは、簡単なことでした。
「どうした兄ちゃん、見ない顔だな?」
バーの常連らしい客に声をかけられても、緊張したのは一瞬だけ。
「最近このあたりに来たんだ、この街には何かあるかい? 面白い話を聞かせてよ」
――吸血鬼がこのバーの常連になるのに、時間はかかりませんでした。
思っていたよりもずっと簡単に人間になじめると気付いた彼は、毎晩、そのバーに通うようになったのです。
望んでいた人間の世界。バーにいる者達は皆気さくに話をしてくれます。吸血鬼も、これまでに読んだ本や観たテレビ、聴いたラジオについて話したり、時には悩みを聞いたりしました。
「あなたは博識だから、話していて楽しいし、頼りになる」
人間達からそう言われ、吸血鬼はやっと居場所を見つけられたように思えました。
誰がどう見ても、そのバーに人間以外の何かがいるようには見えませんでした。
ところが。
「前から思っていたけれど、随分顔色が悪いよね。無理するなよ?」
「よく見ると耳が尖っているね、不思議な人だなあ」
「鋭い牙! まるで狼みたいだ」
「そういえば、どこに住んでいるの? 日中は何をしてるの?」
そう言われてしまうと、吸血鬼はバーに行きにくくなってしまいました。果てに。
「兄さんって、まるで吸血鬼みたいだな! ほら、映画とかに出てくるさ!」
――吸血鬼は引きこもりに戻ってしまいました。
「やっぱり、変だって気付かれてしまった。人間じゃないと気付かれてしまったら、どうしたらいいかわからないよ」