文芸作品の世界で扱われる香りの表現は、情景描写に奥行きを持たせるのはもちろんのこと、時に人の心理状態も描き出しています。また、文筆業ではない芸術家の書いた作品には、より人の本能にせまる五感の表出があり、独特の嗅覚がみてとれます。そのような香り表現を探求することは、人間の心の仕組みを解き明かすこと、すなわち、香りで心の科学を探求することにつながっていくのではないでしょうか。
次に本作より一部ご紹介いたします。
【第1章 日本文学を香りで楽しむ】
2.「かくれ文学者」尾崎翠のにおい感覚
尾崎翠は、大正期から昭和初期にかけて、独特な感覚で物語世界を綴った作家です。生前はあまり注目されることはなかったのですが、代表作とされる『第七官界彷徨』は、劇にテレビドラマにそして映画にもなった没後再認識された作家の一人です。
林芙美子といった著名な作家との交流もあり、また、井伏鱒二、宇野千代ら戦後活躍する作家たちとともに文学誌に掲載されたこともありました。フェミニズム作家たちとの交流もあったものの、精彩を放っているのは、そのような主義主張の出張ったものではなく、ごく個人的な感覚に基づいた作品であるところに、その本質があると思われます。
――中略――
『第七官界彷徨』の主人公は、田舎から町へ出てきたばかりの「女の子」小野町子です。彼女は、自分のことであるのに「恋をしたようである」と客観的視点で語ってしまう、照れのなせるユーモアの持ち主です。「分裂心理病院」へ勤め患者に恋愛感情を抱く長兄一助、蘚(こけ)の恋愛を研究する次兄二助、いとこで音楽予備校に通う受験生の三五郎で構成される「変な家庭」に、小野町子は「第七官界にひびくやうな詩」を書くのを目指す炊事係として、その一角を成すことになります。物語では、個性的で奇妙な人びととの同居生活の中で、小野町子が、ほのかな恋愛感情を抱くに至るまでが描かれていきます。
さて、作中では恋愛感情といった年頃の女の子の繊細な心の変遷が、「におい」によって演出されています。ところが、その「におい」というのは、「匂い」ではなく「臭い」なのです。次兄の研究している蘚を育てる為の肥やしのにおいなのです。小野町子は蘚の恋愛がつつがなく進むよう手伝いをしながらその「臭い」のもと、いとこの三五郎と恋愛のさわりのような経験をします。【第4章 神話と神秘・幻想世界の香りを楽しむ本】
およそ生物であれば固有のにおいを持っています。しかしながら実体がないものにもにおいを連想する機能が人間には備わっています。嗅覚の想像力。知識だけでは創造するのに限界があるのが感覚の面白いところだと思います。生物としての人間が本来持っている感覚を思い起こさせてくれるのが嗅覚です。嗅覚と想像力を駆使して、物語の世界の香りを楽しんでみましょう。
[至天の香り -アンドロギュノス的癒しの時代-]
アンドロギュノス(両性具有)、それは、ギリシア神話のヘルマプロディトス、プラトンによる人間の本性(原形)、カバラにおけるアダム・カドモン、錬金術のヘルメス・トリスメギストス、インドヒンズー教の創造神にして原人間のブラフマン……そして、フロイト・ユング等心理学者にも影響を与えた、たいへんシボリックな存在です。原初の正しき存在形態への永遠の憧憬ともいえるその神秘的な存在を中心に据え、超越的感覚による香りの表現に彩られた美しい物語を、今回はご紹介いたしましょう。
『セラフィタ』は19世紀のフランス文学の傑作とされる『人間喜劇』の作者オノレ・ド・バルザックによって書かれた神秘主義的物語です。舞台はノルウェーの地上の美しさと天上の聖なる美しさの物語を語るにふさわしい海と氷河の造形フィヨールドの村です。そこに建つ石造りのスウェーデン館と呼ばれる屋敷に住む、そばにいると天上の音楽が聴こえ、天上の香りが感じられるという清らかな霊性の具わった存在が、物語の中心人物です。この神秘的な人物との交流は、白樺、唐松、杉、ヒースなどの北欧の濃やかな針葉樹の香りに包まれ描かれていきます。(後略)
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