今年は眠りの森の浸食が著しい。北側からやって来る緑の群れは葉を茂らせて、木陰と木漏れ日を作りながら、あっという間に特区を覆ってしまった。
『求! 不眠症』
ポスターが所かまわず貼られている。不眠症の団体が毎年眠りの森の伐採討伐を行っているのだ。例年ならば、十三チームの精鋭で事足りている伐採だが、今年の浸食は手が足りないためこうして募集がかかっている。募集されているのは重度不眠症の人材。重度の不眠症でない者は眠りの森に近づいただけで意識を失ってしまうだろう。
青年はポスターをじっと見つめていた。彼は不眠症だった。特区とはいえ、夜は静かだ。その静かな夜に青年の頭では幻聴が鳴りやまない。それは、早く故郷の星を救いなさいという救難信号や、どこまでも遠くに指が走っていくピアノスケールの高い音。舌足らずな子供が言葉を覚えようとしている声、それからどこかに連れて行かれそうな機械の轟音。
そんな雑多な音が頭の中で鳴り響き、眠りに落ちるのは雄鶏が鳴き始めて特区が起き始める朝方から。昼まで眠り、午後から活動を始める。
こういった事情があり、不健康な生活を送る青年にとって、眠りの森の伐採討伐はうってつけのアルバイトに見えた。自分の眠れなさには自信がある。むしろ、自分以外にうってつけの人材がいるだろうか?
自信を持って、胸を張って、青年はさっそく求人に書いてあった住所で事務所のドアを叩いた。
どす黒い隈を持つ男が青年を出迎える。そのいかにも眠れていないといった顔に慄く。なぜなら、眠れないとは言うものの青年は隈ができるほどの不眠症ではないからである。
伐採チームのチーフをしているらしいその男は、青年を見ると残念そうな顔をしたが、――青年も案じた通り、おそらく不眠症の人間特有の死相が浮かんでいなかったからだろう――とりあえず、面接は実施された。
普通の求人で聞かれるような職歴などは聞かれることがなく、どれくらいの期間不眠症なのか、睡眠薬の使用歴はあるか、力仕事には自信があるかどうかなどを簡単に聞かれる。
「ちなみに若く見えるけれどいくつだい?」
実は私は二十五歳なんだ、と男が自嘲気味に笑った。その倍以上はありそうな人相である。重度の睡眠不足を伺えるくまの他にも、げっそりとこけた頬。落ちくぼんだ眼窩に埋め込まれた淀んだ目。がさがさと粉の吹いた肌。壮年どころか老人と言っても過言ではないだろう。
「同い年ですよ」
「そうか、羨ましいことだ」
簡単な会話をしているうちに、身体に異変が起き始めていた。強烈な眠気が青年を襲う。瞼が下がり視界が半分になっているのに、その重力に逆らえない。無理やり目を開こうとするが勢いあまって頭が後ろに引っ張られてがくん、と首が動く。眠い。眠い。眠い……っ!
人と話しているのに眠くなること初めての事だった。次第にすべての重力に抗えなくなる。
いつのまにか青年は眠り込んでしまっていた――。
気が付けば事務所のソファーに寝かされている。先ほどの職員は書類を作成していたが、起きた青年に近寄って来た。
「よく眠れたかい?」
「いったい、何が起こったんです?」
通常では起こらないレベルの眠気に襲われたのは特区の怪異が青年に干渉したせいだろう。事務所の男が平然としている所を見ると、命に係わる事のない怪異ではなさそうだ。
むしろ、強烈な眠気をもたらした怪異の正体を知りたかった。この怪異を家で飼いならすことができれば、不眠に悩むこともない……!
男が窓際を顎でしゃくった。そこには何の変哲もない鉢があり、何の変哲もない木が植えられていた。
「ここの事務所にいても眠らないことがチームに入る試験でね……」
あの植木は眠りの森から採って来た木なんだよ、と男が語る。
眠りの森で育った木はその場から切り離されたとしても効力を発揮する。鉢植えになったとしても同じ。その傍にいれば常人は急な眠気に襲われて、眠りに落ちてしまうのである。
「あの程度で眠り込んでしまうと、森に取り込まれてしまうからね」
青年はどうやら求人には落ちたようであった。
久しぶりにぐっすり眠った、伐採チーム事務所からの帰り道。青年の頭はすっきりと冴えている。
「あの植木欲しかったなあ」
いくらか植木を譲ってほしい、そう交渉したが男は首を縦に振らなかった。
「眠りの森の木は管理が厳しくてね。試験としてこの事務所に置かれているけれども、扱いが大変なんだ」
なにせ、眠りの森に取り込まれれば絶対に戻ってこられないからね。
取り込まれたい。そして二度と眠りから覚めたくない、そう男の表情が物語っていた。
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