【あらすじ】
グラン・フォリアージ邸の使用人であるオーガストの幸福、それは、気まぐれに訪れる『忘却の魔女』エレオノーラのために丹精込めた紅茶をいれることであった。しかしこの年は、魔女の子拾いが流行る年回りであることを知ったオーガストの身の内に去来する、切実にして一途な想い。そこに根ざすものは思慕か、それとも。
「これはこれは……久方ぶりですね、エレオノーラ様」
いささか熱気の褪せた晩夏の風が、葡萄と唐草が彫られたファザードを過ぎるさなか、一台の馬車が止まった。古色ゆかしくも品の良い装飾が控えめに施された馬車より降りてきた佳人に、青年は恭しく一礼する。年の頃は二十二、三、清潔に整えられた黒髪は程良く撫でつけられ、淡い褐色の額に落ちかかる毛筋とてない。寸分の隙無く着こなされた燕尾服に合わせた黒いネクタイがきつすぎず、しかし、だらしなくならない程度に締められている首筋には、汗一粒たりとも浮かんではいなかった。
「たまにはここに寄ってみるのも悪くないか、と思うてな」
佳人が青年をちらりと見遣りも、そう声をかけてから、ようやく彼は顔を上げた。その紺青色の目は懐かしくもやさしげに細められ、隠しきれぬ笑みが口許にほころんでいる。
「……とはいえ、たしかにそなたの言うように、この邸を訪れるのもずいぶんと久方ぶりか、オーガスト」
首をかしげたと同時に、佳人の銀の髪がふわりと揺れた。くずれぬよう細心の注意を払いながら、やわらかく結われた髪と雪花の肌に、仕立ての良い濃藍色のドレスが映える。たゆたう白藤色の瞳に、うすく刷かれた真紅色の口紅は硬質な美貌を損なうことなく、はなやぎを添えていた。そこにさらなる彩りを添えるのは、鎖骨と胸乳の間、襟元に開けられた窓越しに見える、しんと静かに透みきった柱状の水晶。
「卑賤の出たる私ごときの名を覚えていただけているのでしたら、身にあまる光栄です、エレオノーラ様──他ならぬ『忘却の魔女』たる貴女様に」
青年――オーガストの声に、エレオノーラは溜息をつきかけたが、その口許を白レースの扇で覆い隠す。しかしその目と表情には、世慣れていない子どもにものを教える年長者の愉悦が滲んでいた。
「いったい何度言えば得心するのだ、そなたは。『忘却』はわらわの司る魔力、けしてわらわ自身の物忘れがひどいわけではないというに」
最後のほうは、ぷうと頬膨らます小娘めいたエレオノーラに、オーガストの頬が大きく波打つ──が、それを次の瞬間噛み殺し、彼はさらに丁重に頭を下げた。そんな彼の視界の片隅を、濃藍色に覆われた静謐な水晶がきらりとかすめる。
「これは失礼しました。いえ……グラン・フォリアージ邸のしがなき一使用人たる我が名は、とてもとても、エレオノーラ様の記憶の片隅に置いていただけるようなものではございません。そのような名を声音に出して呼んでいただけるなど、望外の幸福とはまさにこのことを指すのでしょう」