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簡単に忘れて消えて

  • ア-27 (小説|純文学)→配置図(eventmesh)
  • かんたんにわすれてきえて
  • 転枝
  • 書籍|文庫判(A6)
  • 86ページ
  • 300円
  • 2018/11/25(日)発行
  •  『簡単に忘れて消えて』冒頭三〇〇〇字

     中野駅のホームは、今日も寒い。

     JRのゴミ箱も、自販機も、新宿で降りた時の客層も、ビルの灯りを反射した雲も、それを漂わせているこの空さえも、全部ぜんぶ、世界の全てみたいに思えた。

    「愛」という名前を持つと、自分に愛がないと思える瞬間が私の名前にずっとこびりついてしまう。今日いなしたテストの名前の記入欄にだって、別れた彼氏の言葉が滲んで消えなかった。いくら消しゴムで擦っても。

     

     新宿駅の周辺に住むだなんて、どれだけ人ごみが好きなのだろう、馬鹿なのだろうか。私の親だ。家に帰るといつも私を待っていて、笑顔で話しかけてくる。煩わしいし、鬱陶しい。愛想を家族にまで振舞わないといけないだなんて、私の母は、可愛そう。私よりも胸がずっと大きくて、お尻も少し大きくて、可愛そうなくらい男にもてそう。私なんて、人生で二回しか告白されたことがないのに、私の母は、きっと父さんの他にも五人くらいと付き合っていたのだろう。ひょっとしたら今だって、そういうことをしているのかもしれない。不倫、浮気、それに順ずる何か。まあ別に構わないと思う。だって一人の男の人を何十年も愛し続けるだなんて、どう考えても不可能だから。数ヶ月で愛想が尽きてしまった私の恋に比べれば、母の愛情は良くもった方だろう。私に弟か妹が一人増えないのならば、何をしていても構わない。自分に似た存在が、家の中をこれ以上ほっつき歩いて欲しくはないから、避妊だけはしっかりしてください。こんな願い、たぶん不倫なんてしていないのであろう母に向けても意味はないのだけれど、この街中でふらりと立ち寄ったカフェなんかで、母がナンパされてしまう日も来るのかもしれないのだから、お願いくらいはしておこう。転ばぬ先の杖という奴だ。今日も母は私に向かって、「おかえり」だなんて良い子ぶる。私もそれに応えるくらいには大人だから、二人の関係は上手くいっている。父や母と仲が悪いだなんて、反抗期の子供みたいで格好悪いし、恥ずかしい。親に感謝の気持ちを持っていますと、上辺だけでも言っておいた方が、きっと将来上手くいく。少なくとも親のすねを齧れるから、死ぬことはない。親が死ぬまでは。親が死ぬ。同級生の母親が、確か数年前に死んでいたらしい。本人から聞いたわけではないけれど、その子と中学校が同じだった子がそう言っていた。少し羨ましいと思って、すぐに「気の毒だね」と悲しい顔をした。私の嘘、多分気づかれていなかったと思う。だって嘘が上手いから。ひょっとしたらこの名前だって嘘かもしれないから。

     この街に住むことを決めたのは父さんだったらしい。小さい頃からビルを見るのが好きで、新宿には色んなビルがあるから。そんな風に言って頭を掻いて、申し訳なさそうな表情をしていたらしい。そうして私達が手に入れたマンションには、害虫も出ないから夏になっても夏って感じがしない。口癖のようにそう続ける母は、田舎育ちで摩天楼に変な恐怖を抱いている。だってすぐに一本建ったり、二本消えたり、知らない間に中に入っている企業や人が変わっていたりするのが、妙に嫌だったらしい。自分たちの住んでいる場所より高い位置で、人が歩いていることそれ自体が、なんとなくの恐怖に繋がっているのだと、全く私には共感できない悩みを母は抱えていた。もっとも、大変な悩みというほど深刻なものでもないからこそ、母もこの街で生活していくことを許容したようだけれど。ベランダから見えるネオンの灯り、車の灯り、人の営みの灯り。それらすべてに、求める温もりや失う悲しみが集っているのかと思うと、まあ母の言いたいことも少し分からないでもないなと、母がお風呂に入っている間のリビングで思ったりした。母が出てくる前に部屋に戻るつもりだったけれど、だらだらとLINEで友達とやり取りをしていると、時間はどんどん過ぎていってしまう。特に大切な連絡をし合っている訳ではなかったけれど、最低限の気さへ使っていれば良い相手との会話は続けているのも苦じゃなかった。特に今は、彼氏以外の人間とも話ができる人間だと認めてもらったような気になるから、そういう社会に認められたという自分に酔いたくて会話を続けてしまう。友達とLINEをする女子高生。一体日本にどれくらいいるのか分からないそんな存在に、私は埋もれてしまいたいなと思った。不思議なことに、距離がある程度はなれている相手とは、言葉を通じて近づいたり、親密になったりできるのに、近しい相手との間に響く言葉は、ただひたすら二人の距離を離していくものになってしまう。私にとって、言葉は凶器でしかなくて、包丁を使って料理ができるように、正しい使い方を今はできているのだと、そう思った。一生この人に対して刃物を振り回すことはないだろうから、安心して言葉を投げかけられた。何の意味もない言葉を。そう考えると母は凄い。父さんに向かって刃物を向けたくなったことはないのだろうか。殺したくなったことはないのだろうか。聞けやしないけど、少し気になった。

     自分の部屋に戻って暖房が部屋の隅々に行き渡るまで、ベッドと布団の間に包まって動画でも見ている。大きめのスマホは、こういう時にありがたいなと思う。大きな画面だと、面白くない内容でも観れたものになるような気がする。映画館で観たら面白かった映画が、家のリビングで観るとそうでもないなと思うように、大きな画面と大きな音には人の感覚をおかしくさせる効果がある。そういうクスリを、私は度々キメている。

     私が好きな動画は、EDM系の音楽のMVだ。四打ちのリズムに身体のどこかを揺らしながら、歌詞を聴き飛ばすのが気持ち良い。こんなこと、リビングでも学校でもできないから、私だけが知っている私だけの最高の時間。ズンズンズンズン。考えてみれば音楽とは随分と頭がおかしいものだと思える。一人の音楽家の頭から流れた音に、どうして私達が揺らされたり踊ったり叫んだりしないといけないのだろう。歌詞と自分を一体化させることは、私には難しい。だって英語歌詞の曲ならそもそも調べないと意味が分からないし、自分で訳すほど興味もない。けれど、音は何にも換えがたくそこにあって、一瞬後でも先でもダメなピンポイントで鳴り響く。歌詞はどう変えたって歌えるけれど、どうやらこのリズムだけは、唯一無二のタイミングというものがあるらしい。そこに解釈の余地もなく、ただひたすら、私は一匹の小魚のようにピチピチ跳ねる。この曲を作っている人達は、言葉という包丁をほとんど使わないで、私達をひたすら狂わせる。狂おしいほど好きという訳ではなくて、リズムをとったりとらされたりしているというだけで、それはもう充分に気が狂っている。ダンスなんて学校でやるどうでも良い授業でしかやってないし、身にもならなければ気にも留めないものだと思っていたけれど、じっさいにこういう音楽をライブで聴けば、私も踊りだしてしまうのだろうか。家で打ち上げられている。私にとって、そんな大海のことは分からない。けれど、全員が同じ振動で踊る光景なんて、きっと狂った、そう、クレイジーな景色だろう。さぞ。

     流れでロックバンドの恋愛ソングを聴いてみる。もう充分に部屋は暖まっていたし、明日の予習でもしておこうかなと思ったのだけれど、気分が乗って仕方がなかった。弦が鳴る不規則な音の並び、リズムはEDMみたいに四つ打ちになったりもするけれど、ボーカルが前面に出てきた恋心の情報が、妙に邪魔に思えてしまった。共感させようというアーティストの顔がむかついたし、お前に何が分かるんだと憤りまで覚えてしまった。きっと単なる女子高生にここまで腹を立てられているとは露知らず、このボーカルは今頃バンギャに囲まれて良い思いをしているんだろうな。言葉を聞かせて共感させようだなんて、イエス・キリストだっていくらでも反論を喰らっているのだろうに、どうしてまた愚かしく人は繰り返すのだろう。人は人の言葉なんて聞いていない。私だって、聞けなかった。

     カーテンを開けば、人の群れが空っぽになった新宿が見える。まだ残った営みの輝きが、名残惜しそうに点滅している。私の目に映るのは人ではなくビルばかりで、そのどれもが寂しそうに俯いている。朝を待ちながらどうしても、うるさいくらいの照明を消せないままだ。私がどうしても世界から消えてしまえないように、けれど誰にも愛されていないように、少なくともそう思えてしまえるような世界の中に、私は一人、ここにいる。私の発した振動を、果たして誰が受け止めてくれるのだろう。そんな人はどこにもいなかった。あの人が私に要求したことは、彼の振動を受け止めるということだけで、私のそれはまったく気にも留めてくれなかった。ビルは良い、揺れないことで褒められるのだから。私はビルにはなれない。ずっと揺れているから。震えが、止まらないから。


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