窓の外の景色は、いつだってぼくの目にはぼんやりとした青色だ。色覚の退化してしまったこの目には、空と海の青は見分けがつかない。灰色の町並みの向こうの、どのあたりまでが空で、どのあたりからが海なのかをぼくは知らない。青色のかぎりなく上方が空で、かぎりなく下方が海だということを、知識として所有しているにすぎないのだ。
ぼくらは学園で一番高い場所にいた。螺旋を内側に隠しているこの円塔は、図書館、という名でよばれていて、講義の合間も昼休みも放課後も、生徒の姿はおろか博士が歩いていることもほとんどない。新しい本が入荷されなくなって旧時代のまま、蔵書を増やさないこの書物の迷宮に、用のあるものは、伊呂波のルームメイトくらいだろう。学園の裏側、海につながっているという古い文明の残滓たる廃墟街の延長のようなものだった。
図書館に行こうと誘うのは、いつも伊呂波で、誘われるのはいつもぼく。ぼくのかずすくない友人といえる伊呂波は、ペンを握っていたが、スチールに木目を印刷した閲覧机にひらいたノートはずっと白紙のままだった。
だから、ペンを走らせる音もここにはなくて、耳を澄ますと、カチカチとぜんまいの回転音すら聞こえてきそうだ。……伊呂波から。
この栗色の髪にトパーズ色の瞳をした生徒が、千年社の機械人形であるらしい、というのはクラスでのもっぱらのうわさだった。
――「メッセージ」……Hello、兄弟。
魚たちの吐き出すH2Oは完全な球体だ。
完全な球体の存在しない(それはつまり、魚たちのいない世界と言うこと?)ぼくたちの千年世界において、平行な直線は全てある一点で交わる。
……その、交点が、ぼくのふるさと。
千年社のオートマタの宣伝文句だ。ガラス玉みたいに透きとおった瞳に、ぼくらが熱狂したのは、そう昔のことじゃない。かれらが月の梯子をのぼって姿を消したのが、つい最近であるのとおなじで。地上を去る彼らの映像は、すべてのチャンネルで配信され、翌朝には千年社ともども少年たちは消えてなくなっていたのだ。
千年社が消えた理由は語られなかったし、だれも興味は抱かなかったが、三日月から垂れた梯子をのぼってゆく真白な頬の少年の姿は記憶にあたらしく、機械の少年たちの謎めいた失踪は絶望的で、かれらを追って海へ身を投じるこどもがいたという都市伝説まで残っているほどだ。
ただ、ぼくのクラブ仲間の興味の羅針盤は、あの少年たちが人間じみていてぼくらのよい友達になりえたかという外面的なものではなく、内部構造や、動力源を常に示していた。 ぼくのクラブ仲間――科学部という部員四人のクラブである――は、ここにいる伊呂波と、そのルームメイトの柳臣、そしてぼくのルームメイトの海沙貴だ。伊呂波と柳臣はぼくと同じクラスで、海沙貴だけがクラスが違う。ぼくらは放課後、顧問の水蓮博士の気が向いたときにだけ、部活動をする。
そして、次の講義はその顧問の水蓮の講義だった。
「柳臣は、今日は面倒だから講義に出ないって」
伊呂波はノートの白い紙面に視線を往復させながらつぶやいた。
「水蓮の講義はいつもじゃないか」
「人間は魚から分化した――って、あれがお気に召さないらしい」
予鈴が鳴るころだ。図書館から教室まで、そう距離はないが、そろそろ出なければ。
水蓮博士の選択講義はぼくらにとっては大切な講義だった。
先に立ちあがったのはぼくだ。伊呂波はまだ白紙のノートに書きつけるべき文句を思索していて、ペン先を紙につけるかつけないかを悩んでいる。
「君も今日はやめておく?」
尋ねると、ノートを閉じて万年筆を胸ポケットにしまい、立ち上がる。一応、伊呂波は講義には出席する、――出席、だけは。まじめに受講するのかと問われれば、否、かもしれない。
散らかしていた文具類をしまい、伊呂波は一度、窓を見る。
「ああ、なんてきれいな線だろう」
閲覧室を出て螺旋階段を下りていると、長身の生徒がのぼってくるのとゆきあった。だぼついたブレザーに、タイはしめず、襟元をはだけた姿は生活指導の対象によくされている。――柳臣だ。
「講義にはいかないの?」
伊呂波は道を譲らずに問うた。
「真面目だなあ、オートマタってのは人間の規則に従うように設計されてるんだもんな」
柳臣は伊呂波のルームメイトで、そして、彼を千年社製だと吹聴して回っている第一の人物だった。
口笛を吹きながら伊呂波の細い体の横を通りぬけて、くしゃり、と髪をほどく。校則で禁じられていて、何度も注意を受けている長い髪から、砂埃のにおいがした。また水蓮とドライブに行っていたのだ。
「放課後、部活やるって」
講義には出ないくせに、水蓮と遊んでばかりいる柳臣は、クラブの情報には早い。クラブの連絡はいつもかれをとおして聞かされる。
伝えるべきことを伝えた柳臣は、階段を上ってゆく。ぼくが時間を気にしても、伊呂波は生地の余ったブレザーの背中を見上げていた。
「海沙貴はもう教室にいたよ」
視線に気づいたのか、柳臣は背中を向けたまま呟いた。もろくて硬質そうな手が、真鍮製の手すりをきゅっと握る。
「君を待っている」
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2015年11月に刊行いたしました『
Last odyssey』の前日譚です。
(どちらも独立して一冊で読んでいただけます)
表紙は歌織さん(@ao2ga)に描いていただきました。