◆試し読み
「向 沙月」から連絡が来たのは、実に三年ぶりのことだった。
啓介がその着信に気が付いたのは、マッチングアプリで出会った女に週末会わないかとメッセージを送っている途中のことだった。
「うおっ」
いきなり切り替わったスマホの画面に、思わず声が出る。恥ずかしさから立ち止まって辺りを見回すが、幸いにも夜七時を過ぎた住宅街に人はいなかった。
元カノからの突然の連絡に啓介は出ることを躊躇った。いきなり連絡が来る理由なんて思いつかなかった。酔った勢いの迷惑電話、結婚の報告、借金のお願いなどだろうか。
数秒で思いつく程度の内容は、どれも彼の知る沙月の言いそうなことではなかった。啓介が二年付き合った彼女は明るく朗らかなムードメーカーで、大学のサークルでは部長を務めるほどの人格者だったからだ。
着信は三コール目を待たずして切れた。啓介はため息をついてスマホをコートのポケットに戻した。
未だ冬の寒さを纏う風が着古したスーツの隙間から啓介の体温を奪っていく。
今日はカップ麺でいいか、と夕飯を考えながら自宅へ続くアパートの階段を駆け上がった。
ガチャガチャと玄関の鍵を開けて革靴を脱ぎ捨てる。続いて玄関のすぐ脇にある洗濯機に脱いだ靴下を入れる。ペタペタと音を立てながらキッチンを抜けて部屋へ。帰宅後最初にスーツをハンガーにかけるのは、社会人になってから三年続けている習慣だ。雑に放っておくと皴になって余計に面倒なことになると分かってから、どんなに疲れていても欠かせないルーティンである。
スーツをクローゼットに仕舞った啓介は部屋着に着替えると、もう一度玄関の方に向かう。脱いだワイシャツを洗濯機に突っ込み、電気ケトルのスイッチを押した。
お湯が沸くまでの間、啓介はスマホを取りに部屋に戻る。新着通知はなかった。
一体何だったんだろう、と沙月からの着信について考える。一つ下の学年の彼女はどこかの大手企業に就職したとサークルのOB会で聞いていた。それ以外は特に噂を聞くこともなくきっとどこかで楽しく暮らしているんだろう、と思い出すこともなかった。
電気ケトルがグツグツと音を立てて水蒸気を噴き出す。温かい温度が冷えた頬を緩ます。
電話を折り返してみようか、と思った理由は啓介本人にもよくわからなかった。昔のよしみに対する優しさだったのかもしれないし、自分より大手で働く後輩への野次馬根性だったのかもしれない。
とにかく三コール以内に向こうが出なければ切ろうと思い、着信履歴から「向 沙月」の名前を選んだ。
プルルル、プルルルと呼び出し音だけが啓介の鼓膜に響く。
幸か不幸か、三コール目の途中で相手に繋がった。
「……もしもし」
「もしもし? 啓介さん?」
久しぶりに聞いた沙月の声は、思ったよりも高かった。落雁みたいな甘さを含んだその声で自分の名前を呼ばれるのが好きだったことを思い出す。
(さいせいの日)
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