どうしたって巡り合わせが悪い、だなんて時は誰にだってある。日頃の行いがそこまで悪いだなんてことは思っていないし、至極単純に運が悪かったのだろう。こちらだってちゃんと、できる限りの努力はしてきたのだから。
だからと言って受け入れられるかどうかなら、話は別だ。
まったくもう、なんでこんな日なんだろう。よりによって。
どうにもしようのない苛立ちを無理矢理に抑えつけるようにしながら、気持ち程度に身嗜みを整えることに専念する。
束になって癖のついた前髪を指の腹でぱらぱら整えて、襟がよれていないかをチェックして、上着についた埃は手ではらう──ちゃんと見ておかないと、袖口に付箋がついたままだなんてこともごく稀にあるので。
ナルシストみたいに思われるのかな。いや、だってこのくらいはエチケット範囲内のはずだ。ほら、客先に向かう時だってちゃんとエレベーターの鏡での最終確認はするし。
ひとまず気は済んだし、いい加減出るか。待たせる羽目にでもなったら申し訳ないし。
納得のいかない心地のまま踏み出そうとすれば、鏡越しに現れた影は、聞き覚えのある声でこちらをそっと縫い止める。
「お、桐島くんひさしぶりー。おつかれさま、いま帰り?」
気の置けない笑顔を前に、鏡ごしに精一杯のぎこちない笑顔で取り繕う。──ああそっか、この人は知らないんだよな。無視してる、だなんて思わせるわけにはいけないし。間が悪い時ってあるもんだな、ほんとうに。
覚悟を決めるように、すかすかに掠れたなけなしの声での「お疲れ様です」を伝えれば、途端に曇りなんて微塵も読み取れなかったはずの営業スマイルにはみるみるうちに陰りがさす。
「わ、風邪? ごめんね話しかけて。大丈夫……じゃないよね」
苦笑いであしらうようにしながら、ポケットから取り出したスマートフォンに慌てて打ち込んだ文字を見せる。
『もう平気なんですけど、声だけ出なくて。ご心配おかけしてすみません』
「災難だね〜せっかく週末なのにね。ぶり返さないように気をつけてね」
(そうなんですよ本当に)
心の中でだけ答えながら、ぺこぺことぎこちなく頭を下げて答えてみせる。
説明するのだって面倒だし、その都度こんな風に憐れまれるのも申し訳ないことこの上ない。感謝の気持ちは申し分ないほどあるけれど、それでも。
「お大事にね」
『どういたしまして』
心持ちゆっくりの口パクでの返答はどうやら受け止めてもらえたらしく、ゆるやかな笑顔が返される。
ひとまずは第一関門突破─本題はこれからなのだけれど。
力なく項垂れながら、それでもいつもよりも軽やかな足取りでオフィスを出る。待ちに待った週末の始まりだ。
──『ごめん、いま風邪ひいてて。もう平気だけど声だけでない。不便かけると思うけど』
電車の中から手短に送ったメールには、すぐさま返答が届く。
──『おつかれさま、謝んなくていいからね。もう平気? お医者さん行った? 無理しないでね』
どうもようすがおかしい、と気づいた時点で速やかに病院には行ったし、大事をとって休養だってしっかり取っていた。
それもこれも、業務に差し支えがあるからだなんて勤勉な理由なんかではなくて、週末のお楽しみに向けてだけれど。
──『うつったりとかしないと思うけど、嫌だったら言って。声だけだから、こっちは平気』
──『ご飯なんにしよっか。食べたいもんあった?』
─『辛くないの』
──『りょーかい。スーパー一緒にいこうね』
言葉の向こうに見る見るうちに浮かぶやさしい笑顔に、思わず顔が緩みそうになるのを必死に抑え付けるようにしながら、深々と吐息を漏らす。
慌てて画面を暗転させて見上げた先には、中吊り広告のショッキングな文言の数々─落差があるのにもほどがあるな。こういうのっていい加減規制されないんだろうか、あからさまに子どもの教育にもよろしくなさそうなのに。
下卑た煽り文句をつらつらと眺めるそのうち、浮ついた気持ちがいつしか落ち着いていることに安堵する。悪いことではすこしもないのだけれど、やっぱりこんな公衆の面前でははずかしいから。
わざとらしく唇をうっすらと噛み締めながら、電光掲示板の駅名表示をぼんやりと眺める。
あと二駅で乗り換え、その後はふたつめの駅で降りる。所要時間は二十分とすこし。
もうたったそれだけなのに──待ちきれないくらいに、こんなにも会いたくてたまらない。