【治の証言】インター近くの潰れたラブホに暇なとき集まるんよ。なんでそこやったんかは知らんわ。とにかく先輩に連れてかれて、その先輩もそのまた先輩に連れてこられたんやと。
先輩らはほんっといかつくて、喧嘩とかほとんど半殺しみてえになるんやけど、そんな怖い先輩らがみんなして怖がっとんのがラブホの五階やった。そのラブホ、エレベーターは壊れとるけど、非常階段で上行けんの。最上階が五階。最初はなにが怖いんかよおわからんかったけど、凛花のアレがあってからみんな「五階はやばい」ってなってん。
音楽室の前にしつらえられた水飲み場の蛇口をひねり、喉の渇きを潤している川奈野遥にわたしは囁くように、密やかに話しかけた。
──わたし、先輩なの。
不意に蝿が飛んできたかのように肩を上げ、顔をふるわせ、口元を蛇口から一瞬にして離す川奈野遥の頬には水滴が這って、わたしを見上げていた。上を向いた蛇口から噴出する水が弧を描き、鏡が音楽室の掲示板を映していた。シティ・ジャズ・フェスティバル、チケット発売中。
──あ、え? ああ、こんにちは。お疲れ様です。
──そうじゃなくて、蜘蛛の話。
──ああ、それ。不愉快でした? あれから苦情が殺到しています。本当にすごいですよ。のべ百人くらい。
──そうじゃなくて、わたしは九歳のときだった。悪夢だと思った。いわゆる不思議の国のアリス症候群って病気、あの類だと思ってた。でもそうじゃなかった。
シンクの銀色に弾ける水がブラウスを幽かに濡らして、川奈野遥が水を止めた。束の間の静寂。音楽室からアルトサックスの音色が響き渡った。
──続けて。
池の中でなにかが跳ねた。赤い、多分鯉。
わたしとまやちゃんが座るテラス席は日本庭園のようになっていて、灯篭と池と玉砂利と大きな石と松の木と、密集した葉っぱを棒アイスみたいに整えられた木が三本ある。池で跳ねたのがほんとうに鯉か確かめたくて、もう一度跳ねないかと思って見ていたら、奥にある棒アイスの木の三本ある真ん中と右端の根元の間に、小さい女の子がいた。
「ちんくんとさ、」
本当に小さい。赤いサスペンダー付きのプリーツスカートを穿いている。茶色いおかっぱ髪。本当に小さい。多分、わたしの膝までしかない。
「一緒に住まないの?」
小さい女の子はこっちを見ている。なにか言いたげに、じっと見てくる。動かない。動いた。鼻をかいた。痒いんだ。
じっと息を潜めていたのは息がうるさかったからである。ガスと配管の内壁との摩擦音が行ったり来たりする音。同じくらいの周期で始まりから終わりまで延々と繰り返される音。寝ていても覚めていても意識の有無に関わらず出力が繰り返される音。自然と人工の両方の要素を兼ね備えて産まれては消える音。私はその透き通るような繊細な音が耳の外から空気を介して届いているのか体の内の主に水分を伝ってきているのか分からない。分かり方は想像もつかない。もちろんその両方が入り混じったり掛け合わされていたりする可能性もあるに違いない。仮にそうだとしてそれぞれがどの程度の割合でブレンドされているのか知るわけがなく相乗効果について考慮する必要があるかどうかも判断できない。ただそう思っている間もじっと息を潜めていることだけははっきりと理解している。確かに認識できている。
夫が関東の観光地に友達と行ってきた。帰ってきた夫が興奮気味に観光地の画像を見せてきた。そこはあるアニメの聖地らしい。夫が写真とアニメの画像を交互にわたしに見せた。
同じだ。すごい! と興奮するわたしに夫は、
「ここに座っている人がいたから消したんだ」
「え? え? どうやって?」
「消しゴムマジックで消したんだよ」
どうやらスマホにもともとある機能らしく、画像に入っている人や障害物を消すことができるそうだ。
精神科で、自分の感じた恐怖に気付く力が皆無だと言われた。面談とアセスメント診断の結果、恐怖に気付く力が0点だったらしい。つまり私が「自分は恐怖を感じていない」と認識したとしても、実は一次的な感覚としては恐怖を感じていて、二次的な感覚(自覚)としてそれに気付いていないだけという可能性もあるらしい。私が一次的に恐怖を感じていないのか、それとも二次的に恐怖を感じていないだけなのかを判断する術はないが、少なくとも自覚としては、恐怖を感じにくい。
レエスのカーテンを裂く音
僅かに震える
くうきを
誰も存ぜず
椿の真盛りを
鉞で切り落とし
葬列をつくり微笑んで
あなたはすましているのですね
水栽培しています
あなたの首を
盗品で飾られたこのお部屋で
こちらのブースもいかがですか? (β)
本のすみか 小柳とかげ 望月麻衣 手描き図面工房マドリズ 京都・洛北の自費出版 北斗書房 ザネリ シスターフッド書店Kanin 斜線堂有紀 ぶれーめん シカク出版