平安時代後期・陸奥国。藤原経清は、安倍貞任の妹・結(ゆう)を妻に迎える。生と死が交錯する中、ひとつの恋が安倍貞任を、陸奥国すべてを戦乱の渦に巻き込んでいく。愛と哀しみの歴史ファンタジー小説・第3巻です。
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1 夏の宴
多賀城の端にひっそりと存在している安倍屋敷であるが、その日はいっそう静まり返っていた。涼やかな夏の夕暮れの風が、人気のない屋敷を吹き渡る。屋敷中の女たちが、権大夫・藤原説貞の館に手伝いに駆り出されているのだ。
今宵は陸奥国奥六郡の長である安倍頼時の三男・宗任と、藤原説貞の娘・説子の婚礼の宴が執り行われるのだ。
頼時の末の娘・結は、安倍屋敷の女館で物憂げな表情を浮かべていた。説子は、陸奥守・源頼義の養女として、宗任に嫁ぐ。そして十三歳の結も、この秋、亘理権大夫・藤原経清に嫁ぐのだ。多賀国府と安倍一族の、二重の縁組。ふたつの婚姻が、陸奥を平穏にするのだと、多賀城の民は安堵している。
結は己の婚礼衣装を見上げ、ため息をついた。京の都から叔父の吉次郎が取り寄せたという袿は、それは見事な品であった。常の女子ならば、袿にうっとりと触れ、嫁ぐ日を夢見たに違いない。だが、結の表情はいっこうに晴れないでいる。
(なぜ私は、経清どのの元へ嫁がなければならないの。貞任兄様は縁組を断ることが出来て、どうして私と宗任兄様は、大人しく従わねばならないの。私だって、私だってお断りしたいのに!)
結は、貞任の邪気のない笑顔を思いだし、奥歯を噛みしめた。
説子との縁組は嫌だと言い放って衣川を飛び出し、吉次郎に連れられて戻ってきた兄の貞任は、どこを流離っていたのか、酷く痩せこけ、傷ついた獣のような目をしていた。父・頼時とは目を合わせようともしない。それどころか、安倍一族の人間から逃れるように、叔父・吉次郎の館でひっそりと暮らしていた。
やはり貞任は梓をいまだに愛しているのだ、亡き妻への深い愛情が縁組を拒ませたのだと、衣川の女たちはうっとりとして貞任を見たものだ。あのように一途に男に愛されたいものよと、女たちの噂話を耳にするたびに、結の胸に灼けるような痛みが走った。
私だって、安倍の家を出て婚礼をないものに出来るのならば、とうにしている。でも、私ひとりでは、この陸奥の地では一日として生きることはできない。あっという間に人買いに浚われて、どこぞに売り飛ばされるであろう。一生、人として扱われない暮らしを強いられるに違いない。
そこまでの覚悟が持てない自分に、結はいら立ちを覚えた。
私はあのひとへの愛を貫きたかった。たとえあのひとが、貞任兄様が私を女として愛してくれなくても、私は愛し続けたかった。
いつからだろう、私が貞任兄様をひとりの男として愛するようになったのは。
結はぼんやりと、格子から降り注ぐ夕陽を見つめた。いつの頃だか忘れてしまったけれど、貞任が結に女物の衣を持ってきてくれと頼んだことがあった。結が引きずってきた衣を身につけた貞任は、人が変わったように美しく輝いていた。子どもは美しいもの、輝くものに素直に心惹かれるものだ。
貞任が梓を妻にした夜は、目が壊れるかと思うほど泣いた。もう少し私が大人だったら、梓義姉様に負けないのにと、乾いた砂が水を求めるように己の成長を願ったものだ。まだあの頃は、異腹の兄妹でも夫婦になれるのだと信じていた。昔語りの神々はみな兄妹だったし、ほんの百年ほど前は、異腹ならばきょうだいでも婚いが出来たからだ。
月が満ち、髪を必死に梳き、肌を洗い清め、紅をさしたところで、貞任は結の美しさに振り向くことはなかった。何をやったところで、自分は兄から女として見られることはないのだと、結は落胆した。
そればかりか、貞任は友人・藤原経清との縁組ばかりを口にしてくる。お前が経清の妻になれば、俺は経清と兄弟になれるんだよなあ……などと無邪気に言ってくる貞任に、結は怒りとも哀しみともつかぬ感情しか出てこなかった。
兄様は私の幸せのためではなく、大好きな経清どのとお身内になりたいがために、そのようなことをおっしゃっているのだわ。そのくせ、いざ私と経清どのの縁組が決まると、複雑な顔をなさっていた。本当に良いのかと、幾度尋ねられたかわからない。私に否と言うことなどできないのに。
今頃、貞任がのんきに宴に出ているかと思うだけで、結は髪を掻きむしりたくなる。私の一途な思いなど、兄様は露ほども知らずに!
「結、入るわよ」
姉・市の声に、結はハッと顔を上げた。
「市姉様、どうなされたの」
「今宵は屋敷に誰もいないだろうと思って」
「そう」
「ふふっ。永衡どのも婚礼の宴に招かれているから、わたくしも寂しくなったのよ」
市は静かに円座に座ると、結の婚礼衣装を見つめた。
「さすがは吉次郎叔父上ね。これほどの袿は、多賀城ではなかなか見かけないわ。今宵の説子どのにだって負けないでしょうよ。結はきっと、陸奥国一の美しい花嫁姿を見せてくれるわ」
市の、つとめて明るい言葉に、結は目を伏せて裳を握りしめた。勘の良い姉が、今は疎ましく思えた。ずっと隠してきた貞任への思いを、この姉だけは知っている。誰にも口外しないのがせめてもの救いだと、結は思った。
「……こんな袿なんていらないわ。私は誰にも嫁ぎたくない。ずっと衣川にいたかったわ」
「結」
「どうして私は好きなひとと一緒になれないの。市姉様や貞任兄様に出来たことが、私にはできないの。どうして私は、貞任兄様と……」
握りしめた小さな拳に、涙が滴り落ちる。結は涙を拭いもせず、じっと床を睨み続けた。市はいたましげに結を見つめている。
「ねえ、姉様。本当は私は、安倍の娘ではないと言って。私はどこぞの橋の下で拾ってきた子だと言って? そうしたら私は、貞任兄様の妻になれるわ」
「だめよ、結。それはならぬことよ」
「どうして」
「あなたは紛うことなき安倍の娘よ。わたくしの同母妹よ」
「……」
「結。あなたの思いを、決して貞任に言ってはならないわ。言ったが最後、あの子は何をしでかすかわからないわ。また陸奥を飛び出すか、あるいは……」
市の言葉に、結は唇を強く噛みしめた。
「兄様が死ぬというなら、私も一緒に死ぬわ。好きな人とともに死ねるなら本望だわ」
「結。まだあなたは子どもね。だからそんな簡単に死ぬなどと言えるのよ」
「姉様にはわからないわ、私の気持ちは」
市は何かを言おうと唇を動かしたが、しかし深くため息をついて、結に頭を下げた。
「お願いだから、経清どのの元に嫁いでちょうだい。あなたがいないと、安倍一族は困ることになるのよ。あなた以外に嫁がせられる娘がいないの」
「……姉様」
「経清どのは良い方よ。決してあなたを粗略に扱ったりはしないわ。あなたを心から愛してくださるわ。こんなに可憐な娘なのだもの」
「私は俘囚の娘だけれど、経清さまにとっては大事な友人の妹だもの。愛することはなくても、俘囚の子よと蔑むことはないでしょうよ」
「結!」
青ざめる市に、結は苦笑いを浮かべた。
「ごめんなさい、姉様。少し愚痴をこぼしたくなっただけ。本当に兄様と結ばれるだなんて思っていない。貞任兄様以外の男に嫁がなければならないのは、わかっていたことよ。それが少し早くなっただけなんだわ」
その寂しげな言葉に市はたまらなくなり、結の細い身をきつく抱きしめた。すまぬ、すまぬと、市が結の耳元で繰り返しささやき、涙を流した。