「俺の居場所はどこにもない……!」
平安時代後期・陸奥国。十八歳の青年、安倍貞任は、衣川を出て都へ上る決意をし、国府・多賀城に向かう。多賀城の役人・藤原経清(奥州藤原氏初代・藤原清衡の父)との出会いが貞任の運命を変えていく。
前九年合戦をテーマにした歴史大河小説・第1巻です。フルカラーカバー付き。
【本文サンプル】
1 おもわくの橋
(これからどうしよう……)
目の前を流れる野田の玉川の、細く緩やかなせせらぎを見つめながら、安倍貞任は頬に手を当てため息をついた。
ここは陸奥国府・多賀城。多賀城は古の奈良の時代より、歌枕の地として歌人から愛された美しい都市である。
そしてまた、蝦夷・阿弖流為との大戦より遥か昔から、陸奥統治の軍事的拠点でもあった。
陸奥国の中心である多賀城の往来には、大勢の人が行き交う。
道端に植えられた紫陽花は、美しく朝露をたたえている。水無月のつかの間の晴れが清々しい朝だというのに、貞任は陰鬱な表情を浮かべていた。
橋の袂でしゃがみこみ、ぼんやりと川を眺める自分の姿はさぞみっともないだろうと、貞任は唇を噛みしめた。しかも今の貞任は、どういうわけか女物の衣をまとっているのだ。
貞任は男ながら色白で美しい顔立ちをしており、上背がある。単の裳と絹の上衣を身につけ、豊かな解き髪の貞任は、多賀城に住まう宋の美女のような風情を醸し出していた。
(なんで俺がこんなことに……。それもこれも、みんなあのクソ親父のせいだ)
貞任は父の顔を思いだし、舌打ちをした。
貞任の父・安倍頼良は、陸奥国奥六郡を治める大豪族である。
安倍氏は、元々は東北を統治する胆沢鎮守府の在庁官人であった。鎮守府は、坂上田村麻呂が阿弖流為との大戦の最中に、多賀城から胆沢の地に移した組織である。
胆沢鎮守府は長らく東北の政治・軍事的拠点であったが、朝廷が地方に興味を示さなくなるにつれてその機能を失っていった。次第に在庁官人である安倍氏が力を持ち、ついに胆沢鎮守府を掌握したのである。今では胆沢・江刺・和賀・紫波・稗貫・岩手の奥六郡を勢力下に置くまでとなった。
それより以前の安倍氏について、貞任は知らない。大方、都で出世の見込みがなくなり、陸奥に土着した官人だろうと思っている。
干ばつに喘ぐ西南の地と違い、陸奥は豊かで実り多い地であった。吹き渡る風は心地よく、降り注ぐ日差しはやわらかい。雨水は大地を潤し、秋には金の海のように風に稲穂が揺れる。
それだけではない。金を生む山々、毛並みの見事な馬たち、織られる美しい白絹。そして、陸奥より遙か北の地との交易で得られる鷲や鷹の羽、海豹の皮、昆布。そういった珍かな品々を国府に献上することによって、安倍氏は奥六郡の統治を黙認されていた。
安倍氏は代々、胆沢鎮守府近くにある鳥海の城柵に本拠地を構えていた。しかし、現在の当主・安倍頼良は、衣川関に広大な館(たち)を構え、一族の主だった者とともに住まっている。
衣川関は、多賀国府の支配領域と安倍氏の領地を隔てる関であった。陸奥国内にありながら、衣川関はさながら国境の如き緊張を孕み、しかし官人や都の商人、そして宋人が行き交う、華やかな商業都市でもあった。
貞任が育ったのは衣川ではない。衣川よりさらに南の、磐井の地である。貞任が生まれてすぐに母が亡くなり、貞任は磐井を治める金(こん)一族に預けられたのだ。
金氏は古くから金採掘能力を有し、陸奥金山の管理を任されている。その功で朝廷から位階を授けられ、郡司として磐井を治めていた。金氏は安倍氏の有力な姻族でもあり、頼良の母・貞任の祖母も金一族の娘だった。
貞任は膝に額を押し当てて、目を閉じた。まなうらには、懐かしい磐井の濃い緑の山々が浮かぶ。
幼いころは良かった。何も知らずに、金一族の男子たちと磐井の地を馬で駆け回っていた。
貞任は、一族の男子の誰よりも速く駆けた。弓矢を持たせれば、的の真ん中を射抜く。特に剣術は強く、自分の背丈ほどもある太刀を自由に操り、大人を負かすほどの腕だった。
そして、淡い幼恋。金一族の娘・梓と一緒に、森の中で木の実を拾った、楽しく優しい日々。二人で食べたイチイの実は、甘くて美味しかった……。
成長するにつれて、貞任は自分の立場を理解するようになった。自分は金一族の子ではない。奥六郡を統治する、安倍一族の子なのだと。自分は磐井ではヨソ者なのだと。そういえば、自分の世話をする女たちは、どこか憐み、畏れているように思える。その事実を知った時、貞任は馬で衣川まで駆け走った。
(親父は、俺が邪魔なんだ。きっと俺の母さんは、名もない端女なんだろう。だって誰も母さんのことを教えてくれないもの。親父が気まぐれに母さんを愛して、孕ませたんだ。母さんを失った俺を捨てるのも外聞が悪いから、親父は俺を磐井に預けたんだ)
馬上から見える安倍館は、まるで鶴が翼を広げたような優美なたたずまいをみせる。貞任はじっと安倍館を睨んだ。
磐井での暮らしは自由だったし、金一族の総領で、梓の父である金為行は優しかった。梓やその兄弟たちと貞任は、何の隔てもなく育てられた。為行が実の父親ならいいのにと思うほどだった。金山の男たちは、気が荒いが心優しかった。
だが、為行の弟・為時だけは、貞任に激しく折檻をした。それも、誰も見ていないところで貞任を笞打つのだ。自分の何が悪くて為時からそのような扱いを受けるのか、貞任にはわからなかった。為時が気仙郡司の養子となって磐井から去ったときは、貞任は胸を撫で下ろしたものだ。
自分は金一族の人間ではない。だが、梓を妻にすれば、一族の者として認められるかもしれない。そんな打算めいた考えすら浮かんでしまい、貞任は磐井の山々に向かって叫び声をあげた。
違う! 俺は梓を心から愛している。こんな醜い考えで、俺は梓を妻にしたいんじゃない。
そう考えても、金一族に認めてほしい、為時から憎まれたくないという思いが貞任にはあった。
十三歳の春、貞任は突然、頼良の住まう衣川に引き取られた。肩に揺れる解き髪はきつく結われ、絹の豪奢な衣を着せられ、むやみに外に出ることを禁じられた。書を与えられ、和歌を詠まされ、貞任は戸惑った。
遠駆けすれば、見つけられ連れ戻される。兵たちと自由に武芸の鍛錬をすることもままならない。それでも貞任は、こっそりと武芸の稽古を続けた。貞任の腕前は次第に評判となり、安倍の兵たちの憧れを掻き立てた。
頼良は、そんな貞任を快く思わなかったらしい。兵たちと酒を酌み交わすところを見とめられた時は、頼良から激しく打擲された。頼良の折檻は、為時のそれよりもよほど骨身に沁みた。
(なぜ、親父はわざわざ、俺を衣川に呼んだんだ。これなら磐井の暮らしのほうがずっといい。親父の子ならたくさんいるだろう。俺なんかいなくてもいいじゃないか)